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ちぐはぐな街はキレイ


「どこそこのラーメン屋は知ってる?」
「どこだろう?」
「ふんやら通りを、こう行って、こう行ったところの、、」
「ああ、あの通りね、はいはい。はて、あんなところにラーメン屋なんかあったかしら」
「そう、あそこが美味いの」
「ああ、そういえばあの通りには湯屋があるよね?近く?」
「へ、あんなところに湯屋があったかいな」

大体同じ場所をを思い起こしているのに違いないのに、うまく噛み合わず、互いが想起している街が交わらない。
頭の中で待ち合わせることができない。
みたいな事が、人と話していると偶に起こる。

街は誰にとっても同じ形をしているなんてことは全然なくて付き合う人によって顔を変えよる。
実のところ、地図のように正確に捉えている人なんて殆どいなくて、人それぞれ頭の中に存在する街の形は違って、各々が銘々の街に生きているんじゃなかろうか。 
街は種々雑多な顔を持ちあわせている。
僕なんかは、かなり出鱈目でチグハグな街に生きていると思うし、もっとガタガタで心配になる人だって偶にいるし、逆に隅々まで知り尽くしている人もいるから、正確な町の地図を頭に持ち合わせた同士の会話においてけぼりをくらって、ほえーとか、あらまあとか、阿保みたいに頷くばかりで、全く何も分かっていない時だって少なくない。

幼い頃住んだ町を、大人になってから改めて歩くと、少し横道に逸れるだけで全く知らない通りだったり、かなりチグハグな街に住んでいたのだという事がわかる。
というより、登下校中に関心を寄せていたのは、甘い蜜のある花が咲いている花壇だったり、カエルがよくいるところ、基地をつくれるかなんかだったからそりゃあ当然だ。

現代人において街をチグハグにするのは、自動車や電車、バスによるものが大きい。という言い訳をしておく。自分の足で歩くのが殆どだった時代に生きた人は、もうちょっこし整理整頓された街を持っていたんでないかしらと思う。
そして、更に現代人のちくはぐを加速させたのが、地図アプリケーション。
目的地を入力すれば、最短での道順、所要時間、乗り継ぎ案内まで懇切丁寧にご教示くださる。あれ。とっても便利。
なんだけれど、どうしても出発地と目的地までの道程に対して盲目的になりがちで、店を探すにしたってインターネットだと、ピンポイントでお店を探し当てることはできるのだが、そのあいだがない。
心の内では家から目的地まで瞬間移動してるのとなんら変わらない。
僕は、韓国からフランスのパリまで地続きなんだと、そこまで歩いていけるのだという事実が信じられない。想像ができないのだ。
ノンフィクション作家の沢木耕太郎はバスを乗り継いでユーラシア大陸を渡り、伊能忠敬は歩いて日本中を歩き回った。

地を踏むという感覚が著しく僕の中に不足している。
てくてく不足。

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