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N夫人のちいさな図書館 前編


風は湿めりけのある寒さを連れてくる。
濡れたアスファルトに薄汚れた落ち葉が刺青のように張り付いている。その上をしゅみしゅみと歩く。

トントンしゅみしゅみパシャ。
トントンしゅみしゅみパシャ。


濡れたってかまわないと水溜りを避けずに歩く。そんな大人は中々いないだろうと笑けてくる。まさに大供だ。

小さい頃、靴が濡れてしまうと気持ち悪くってよく、ぐずっていたことを思い出す。どうにも我慢出来きずに泣き出し、そのくせ長靴が大嫌いで雨の日にも履くのを拒んで親を困らせていた。
今も変わらず濡れた靴で歩くのは不愉快になるのだけれど、今日は極めて鷹揚な心持ちで歩いていた。機能的なランニングシュウズとこの軽やかな心が相まって歩調が早まる。
電線に留まっている雫が、ちょうど下を歩く僕のつむじの上に落ちてきて、ヒヤッとしてビクつく。
鳥にフンでも落とされでもしたのかと思ったが、ただの雫だったようで安心した。思えば、ほんのさっきまで雨が降っていたのだ。鳥たちはまだ何処かで羽休めしていることだろう。
べったりと雲が屋根の上に張り付いていて昼間なのに薄暗い。
よく買い物する馴染みの八百屋を通り過ぎて坂を下る。表におばちゃんは立っていなくていつも外に置かれているザルに乗せられた野菜は今日は無かった。
今日は野菜を買いに出かけたのではない。
坂を下って商店街を抜けたところに、村山花店という素敵なお店がある。そこへ花を買い行くのだ。

今日は雨で外へ出れないことを良いことに午前中かけて部屋の掃除をした。暖房を切って窓を半分だけ開ける。雨の音を聞きながらトイレ掃除をはじめ、次に風呂釜を洗って、キッチンのコンロまわりの油汚れを落としてから流し台を綺麗にする、それから冷蔵庫の中を整理して(賞味期限切れの調味料や、奥から長い間食べずにいたカエルの干物がでてきた)
それからそれから勢いに乗った僕は、床を雑巾掛けしてから、はたきを持ってレコウドの埃取りをしたり、本棚の整理もした。
気づけばそれなりの大掃除となっていた。
一度手をつけると、あっちもこっちもと気になりだして、結果的に部屋をまるごと洗ったみたくなった。定期的に掃除をしていればそんな必要はないのだろうけど、この不精な性格は不治の病であり、完治することはありえないのである。

「綺麗な部屋は心を綺麗にする」眠りに入るほんの手前で、ラジオパーソナリティがそんなようなことを話しているのを聴いた。たしかにそうかもしれぬと思いながら、眠りに入ったものだから夢の中で自分は掃除をはじめていた。寝床を動かすと、蹴鞠のような埃やハエの死骸まで出てきた。盗賊のように口に巾着を撒いて、部屋中を掃除していたのだ。なぜかお国に住んでいるはずの母親が居て一緒になって部屋を整理整頓して、印鑑や大切な書類はちゃんとまとめて置いとかないといけないよと説教までされたのだった。
夢から醒めて、とっ散らかったままの部屋を見渡して閉口した。

一週間ほど前のことである。

ひと段落つけたところでうまい具合に、雨脚が弱まったので、この整頓した本棚の上に花瓶を置いて、花でもさして華やかにしたらいいじゃないかしらんと企んで下宿屋を出たのだった。だからこの曇天模様に反して僕の心の内は晴れやかだった。
先程まで雨が降っていたせいでまだ傘をさしたままでいる人がちらほらといる。僕も部屋の窓からは判断しかねて、傘をもって出てきてしまったのだった。傘を杖のようにして歩く。

トントンしゅみしゅみ。
トントンしゅみしゅみ。


このまま真っ直ぐに下ればよいのだけれど、いつもとは違う道を歩こうと思えてきた。前を通ればうるさく吠える犬っころがいる黄色いお家のところを曲がってみることにした。雨が上がったのを見計らって散歩に出かけたのか、あの犬っころが居なかったのだ。

赤い屋根のお家や、クリイム色の壁のお家、広い庭があるお家。大きいのから小さいの。
ここら一帯は住宅街で家ばかりが立ち並ぶ。
だけれど、どれも古っぽくて色も暗いように思える。天気のせいだろうか。
ここを通ったのはいつぶりだろう。引っ越したばかりの時、「地域探検」と称して歩き回った時以来のような気もする。いつもあの犬っころに吠えられるものだから、この道を歩くことが無かったのだ。



ありゃ、こんなとこあったかしら。


あるものに目に留まった。
「N文庫」と書かれてある看板。
住宅街に紛れ込む一軒の家屋に看板がかがけられている。壁にはところどころ苔が生えていて、建物自体は古めかしい雰囲気が漂うが、こざっぱりしていて凛とした印象を受ける。まるでパリッときたスーツを着た老紳士のようだ。それでいてパズルの一欠片のように周りに丁度よくおさまっている。

看板にはざっとこんなようなことが書かれていた。

○この私設図書館は私の夫の蔵書をもとにつくりました。昨年の暮れにその兄が亡くなり遺品の中にこの書籍が山ほどありました。
「N文庫」として皆さんに読んでいただくことによって故人の供養にもなるのではないかと思ってこのような形となりました。
時々留守にすることはありますが、部屋は開けておきますのでご自由にお使いください。
インスタントコーヒーとお茶をご用意しておりますご自由にどうぞ○   館長N




僕はおそるおそる中に入ってみることにした





○あとがきめいたもの

これは半エッセイ小説です。
掌編というべきでしょうか、自分の身の回りにあったことをもとに物語をつくってみました。友達が見た夢の話を聞く感覚でよんでいただければと思います。
よろしければ後編も覗いてみてください。

それでは

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