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猫のションベンは風を巻く


記憶の中に仕舞い込まれた匂いというものがある。
誰しも一つや二つ持っていることだろうと思う。これを人に話すと物は違えど、だいたい同じような経験をしていて、それなりの話が出てくる。
僕にとってのそれらは、引き出しの中で丁寧に包装されて、大切に扱う類のものではなく、いつぞやに買った使うの用途のない土産物のような存在で、思い出す時がくるまで思い出すことはないし、思い出せなくなる日も来てもおかしくはない。
多分他の人にとっても同じようなことなのだと思う。



ある日の黄昏時、住宅街を歩いていると緩やかな風がふゆりと体をすりぬけた。季節はいつごろだったか覚えてないが薄着だったと思う。
右にも左にも家屋が立ち並んでいる。あたりは段々と薄暗くなり、所々家の玄関に明かりが灯りはじめていた。
そんな中、草がボソボソと生えて、「売り地」と白地に赤文字で書かれた看板がポツンと掲げられている空き地が、歯抜けのようにそこに在った。
周りが薄暗いせいか、周りに何もないせいなのか、やけに看板が目立っていた。そしてその看板は虚ろにぼうっと立っていた。
(看板にぼうっともシャキッともないと思うんですが、ぼうっとたってたように見えました)

その空き地の前を通った時になぜだか懐かしい匂いがした。
だけれど何の匂いだかはわからない。
良い匂いではないことは確かで、長く嗅いでいると気分悪くする、悪臭。
はてな、と思いつつ、立ち止まることはせずにそこを通り過ぎた。

それから幾日たったかわからない、ある日。
大通りから外れた、少しじめった路地裏を自転車を漕いでいると一瞬、あの日と同じ匂いがした。建物と建物の間を通り過ぎた時に感じた、不快感とひとつまみの懐かしさ。

少しして、あの「売り地」の文字を思い出した。
薄暗い中立っていた、白地に赤文字のあの看板を思い出した。引き返してあらためて、匂いを嗅ぐとあの時と同じにおいであることを確信した。
そして幼稚園に通っていた時に嗅いだ匂いなのだということも思い出した。
だから懐かしいのだと。僕が4つ5つの時に嗅いだ匂い。
なぜこの匂いが幼稚園を思い出させるのかまではよく自分でもわからなかった。




それからまた幾日かたったある日に、 友人と街を歩いてた時に、またあの匂いが漂ってきた時に「臭いなあ、猫のションベンの匂いがする」と友人が言ったのだ。

そういえば僕の通っていた幼稚園には園長先生が可愛がっている猫が何匹もいたのだ。この匂いは猫のションベンだったのかと、ハッとした。
「売り地」と「ぼくの通っていた幼稚園」が猫のションベンでひと繋ぎとなった。意外なところで懐かしさの在り処に辿り着いてしまった。












追記
この前、男子学生の集団とすれ違った時サイダーの香りが漂っていて、なんだかいいなと思いました。

それと犬派猫派ってありますが、近年、猫派が増えてないですか?気のせい?
僕はずっと猫派を唱えている者ですが、小さい頃は犬派の方が圧倒的に多かったような、、。
今は猫派の方が周りに多いような気がします。

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