見出し画像

からっ風吹く不思議なコンビニ

あるコンビニで買い物をした時のこと、そこは(説明不要だと思うが、)普通のコンビニとは少し違って100円均一で日用品から食材を買うことができる。野菜やお肉、果物があったりちょっとしたスーパーマーケットだ。そのなんてことないコンビニを出たとき僕の心には心地よいからっ風が吹いていた。  

入店するとレジのところで店員(5.60代の男性)と会計を済ませまたお客(同じく5.60代女性)がなにやら楽しそうに世間話に花を咲かせていた。そんな二人をしりめに、店内をうろうろとまわり商品をかかえてレジの前へ向かうと、僕の存在に気づいたらしく女性は傍によけ、会計をしてもらうこととなった。会計中も2人の間で話はまだほんのり続いていて、そんな中で「お箸つけておこうか?」と不意に聞かれたものだから本当はいらなかったのだが咄嗟に「お願いします」と答えてしまった。「あいよっ」と店員は子気味良い返事をし、手際良くレジ打ちを済ませて「このごろまた寒くなったねえ、またきてねっ」と一言。僕はなんてこともない、この一連のやりとりに心にからっ風が吹くのを感じたのだ。その一言はお客と店員の関係以前の、人と人の間に発せられた、ごく自然な言葉のように感じた。もちろんこの男性店員と知り合いでもないし、そのコンビニに頻繁に行くわけでもないから顔を覚えられているわけでもない。そんなコンビニで「またきてね」と言われることはまずないだろう。(芯をくって伝えることができないのが、くやしい。言い方から表情まで本当に自然なのです)しかし、心にからっ風が吹いたのはその一言によってのみではない、そこには何かがある気がするのだ。  

言葉のリズムといい、はつらつとした表情といい、レジの男性は自身で商いをしていた経験があったんだろうか。彼がレジに立っていると、ここは個人商店なのかと錯覚してしまう。楽しくお客さんとお喋りしてるのもなんだかいいものだなと思ってしまった。思えば小さい頃から商売人の人情味に触れる機会が少なかったかもしれない。僕が小さい頃から、親は基本的にはスーパーで買い物を済ませていたし、コンビニもそこらじゅうにあった。魚屋さんやお肉屋さんに行くこともあったがそれに類する思い出は僅かなものである。  

親に連れられて行った魚屋さんは魚の匂いのする中(当たり前なことだが、スーパーであれほど生臭い匂いがすることは少ない)威勢の良い声が飛んでいた。天井からザルが吊るされていて、レジがわりに売り上げをそこに放りこんでたのを、おぼろげながら覚えている。
お肉屋さんのコロッケや豚カツが大好きで、お使いでよく1人で買いに行くことがあった。そこの主人は職人のように無口な人で(奥さんはもう少しお喋りで優しかった)黙ってコロッケを揚げていて、ほとんど喋ったことがなかった。油の匂いが香ばしく食欲をそそるなんともいい匂いで、パチパチと耳触りのよい音をたてコロッケはだんだんきつね色に揚っていく。換気扇の音とコロッケを揚げている音のみが鳴り響く中、じいっと心待ちにそれを見ていたものだ。  

こんな風に経験としてはあってないような乏しいものである。今も八百屋さんやお肉屋さん行くこともあるが、スーパーで買い物を済ましてしまうことの方が多い。
マニュアル化され、お店とお客の関係が希薄なコンビニで買い物をすることに慣れているところに、不意に「人情味」に触れてしまったことでドキっとしてしまったみたいだ。こんなことでドキっとしてしまうのも情けなく思うが、現代に染まってしまっているからなのだろう。一つ言い訳をするならば僕が物心ついた時からある程度社会はそんな風にできていた。八百屋さんやお肉屋さんよりコンビニ、スーパーのほうがずっと身近だ。
落語にでてくる商売人のような存在に僕は憧れに似た感情を抱いてるのかもしれないし、若しくは子供の頃駄菓子屋でお菓子を買っていたあの情景を「またきてね」のひとことでふっと思い出したのかもしれない。  

なんにせよあんな気持ちでコンビニを出たことなんか今までなかったのだ。  


追記  
この文章は一年以上前に書いたものらしいんだけど書いたことすら忘れてしまっていて携帯のメモ帳にほったらかしにされてました。

そして残念なことに、そのコンビニはなくなってしまいました。


popeye、anan8月号にちょこっとずつ掲載していただいてます。よかったらチェックしてみてください。こんなことはそうそうないと思いますので、、。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?