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へっくしぃーずん

ズルズル、ズルル。
ズルル、ズルズル。いつまでもたっても出てくる。鼻をかみすぎると鼻の下のところが赤らむね、あれは何でなのでしょうね。
いつも鼻を垂らして、鼻の下を赤らめていたあいつは今頃どうしているのだろうか、もう名前すら覚えていなくて鼻水の印象しか残っていないあいつ。

鼻水というのは一体どこからやってくるのであろうか、鼻には間違いないのだけれど、つくったつもりがないのに気づけば其処に居る。さも僕が生まれる前からいるのだというように自然と其処にいるのだ。これからもずっと一緒だからねと肩を組んでくる。冗談じゃない、いきなり出てきて何を言ってるんだと、つっけんどんに振り解いてやる。でも居る。かと思えば、最初から鼻水が無かったんではないだろうかと思うほどに忽然と姿を消す。鼻水の不在を、滞りなく繰り返される気息によってようやく気づくことになる。去るものは日々に疎し。そして来る日まで鼻水を忘れるのだ。
見上げると空に雲がひとつだけ浮かんでいて、彼は何処からやって来たのであろうかと鼻を啜りながらそんな事を思う。
はなみず、、そういえば水はどこからやってきたんだろうか。海はバケツ何杯分もの大量の水を湛えてゆらゆら揺らしているけれど、あの揺れている水はどこから生まれたのだろう。ズルズル、海は鼻水と似たところがあるのかも知れない。
眼前には、光が転げる鴨川。鴨が水面を滑るようにして川を下っていくのと横並びとなって僕は河道を同じくらいのスピイドで歩いて南下する。後ろを振り向けば川が続いているずっと遠く向こうに北山連峰が大仰にかまえて空にへばりついている。土手の縁の草叢に身を隠していたサギがケーンと一つ鳴いてから山々の方へ飛んでゆくと、見事な一枚絵をとなった。暫く見つめているとズルズル鼻を啜るような音が後方から聞こえてきた。それは子供がリードで繋いだ犬を引き摺る音で、犬っころは何が気に入らないのか目一杯反抗してその場から動こうとしない。砂地の河道からは砂埃がたつ。今度は後方からやってきた自転車が颯爽と砂埃を追いやる。それによって巻き起こった風に鼻を撫でられた。
ズルズル。まさか花粉症を患ったではないだろうかという一抹の不安がよぎる。僕はこれまで花粉症というものには無縁に過ごして来た。かと言って花粉症に対して何も感じずに今まで生きてきた訳ではない。
人間には体内における花粉の受容する許容量と言うものが各々決まっていて、此れを超過してしまうと、それ以降花粉症に悩まされる羽目になるというのを聞かされた事がある。この話を聞いてから自分のポッケの深さについて考えるようになった。アルコール耐性が個人差が存在するのと同じでこの説は妙に説得力がある。昔小さい頃、近所の公園で、松の木に松ぼっくりを当てて、花粉を撒き散らす遊びをやっていた。目に見えるほど黄色い粉が松の木から噴射されるのが、気色わるくって、しかし何処か爽快で、そんな愚行を何度となく繰り返した。(しかも花粉症の友達がそばに居た上で蛮行に及んだのである、、、罪深き行為である)
当日、花粉症ではない僕はなんとも思わなかったのであるが、ポケット理論を知った今や、取り返しのつかない阿呆な事をやってしまったとほぞを噛む思いである。そして友人に陳謝したい心持ちでいっぱいだ。
これまでに、この鼻詰まりは花粉症よるものかもしれないという不安に何度か苛まれたが、くぐり抜けてきた。今回もどうか杞憂であってほしい。

ケーーンとまた何処かでサギが鳴いた。
へっくし、ズルズル。
責め立てられている気分になった。






追記
前も書いていると思いますが、兄弟でラジオまがいな事をしております。spotifyApplemusicで聴けます。ただよもや話するだけ。ぽけえときいていただけたらなと思います


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