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ねじれる都市の酒処


「ハイボウル一杯百圓??」
僕は目を丸くする。
ラミネート加工されたお品書きには、確かにハイボウルが一杯百圓とある。
さすが天下の台所と謂れるだけあって、大仰に光り輝く店が所狭しと軒を連ねる。
メイドさんカッフェや芸人さんの小屋を通り過ぎ、小道具屋が立ち並ぶ商店街をぬけ、ぱっとせぬビルディングのニ階。
席が100はあろうか、騒々しく大きな居酒屋。まだ早い時間だからか、人はまばらで、騒々しいのは店内ミュージックである。話し声を著しく妨害するという程でもなく、かと言ってささやかなともいえぬ塩梅。しかしまあこれだけ酒が安いのだから大抵の事は目を瞑ることができよう。
この国の居酒屋ではハッピーアワーなる催しがあって規程された片時の間、安値で呑むことができる配慮が往々にしてあるのだけれど、此処は終日この値段らしい。
友人は以前ここへ来て、あてもなしに二人で十五杯ものハイボウルを呑んだというが、それでも会計は一人千圓もいかないのだから恐ろしい。
1時間もいれば知らぬ間に満席、喧騒が大きな渦となって、酔いを助長する。萎びたポテトフライ。

梯子をかけて二軒目は友人馴染みのバーへ。
彼はアブサン、僕はウィスキーのロック。
先程とは打って変わって物静かな落ち着いた雰囲気に、先程の10倍以上の値のする酒をちょっこしずつ口に運び喉を暖め、友人が最近、読んだという聖フランチェスコの生涯についての話を聞く。
アブサンが垂らされた角砂糖が仄暗いカウンターの上でぼうと青白く光り、その昔多くの芸術家が中毒になったという逸話を思い返すと、光は怪しげな婉然としたものに見えてくる。
ニ杯目は、しっかりと冷えた銅のグラスに注がれたハブ酒。
肉を食うでもなく、皮を剥がして使うでもなく、酒に漬けるとはどういう料簡なのだろうか、と喋っている心の内ではこのハブ酒は一体幾らなのだろうかという事を気にしていた。
値段がどこにも書いてない。べらぼうに高いことはないだろうと呑んでいる。
先程との余りの違い、捩れにそれがなんだか面白くなってくる。百圓で酔えるところがある一方で、方やその何倍もの金銭を払って酔うところもある。

ベトナムに家族で旅行へ行った時、兄と二人でホイアンのクラブに遊びに行った。
日本ではクラブへ遊びに行くことなんて、まあないのだが、異国の若者文化にちょっこし触れてみたくなったのだ。
家屋が軒を連ね、路地裏には薄汚れた犬がふらつき、タライの中でじゃぶじゃぶお皿を洗っているご婦人がいる。
至ってローカルな雰囲気の漂う表通りに、それはいきなり現れる。スーツを見に纏った黒人のセキュリティに入場料を入って中に入ると、爆音で鳴らされる音楽紫やら青やらのどきつい光線が空間を支配している。
案に相違して、中高年が若い女性を連れているのが多かった。
(町に歩いているような、浅黒い東南アジア系のというより。肌の白い女性が多く、反して男の方は町で見かけるベトナム男性だった)
前方には大きなステージ、ポールダンス。二階席はVIP席らしく豪華なソファがあって一階を一望できるようになっている。
僕の想像したクラブとはだいぶ様相が異なり、しょんべんをするにもチップがいるらしい。
もっと驚いたのがビイルの値段が10倍近かったことである。
僕ら兄弟二人はクラブに寄る前、街の定食屋で一皿300圓前後のワンプレートを食ってきたところで、大いにたじろいだ。
ベトナムは当時(7.8年前)日本円にして確か100〜200圓程度でビイルが飲めたはずだからクラブでは1000圓はしたのだろう。つまみにしても何しても矢鱈に高い。
この時も捻れを感じた。
そう何杯も呑まずに早々にクラブを出た。僕には町で呑む方がよっぽど刺激的で楽しいものに思えた。その捻れはやっぱりなんだか可笑しかった。

其々、別々の酒の神さんがいらっしゃるんだろうと思う。
川畔や桜の木の下や、公園に至るまでそれぞれにいらっしゃるのだろう。同じ酒を呑んだとて微妙に酔い方が変わるし気分も違う。僕は酔っているときは酒の神さんに降りてきてもらっている状態だと考えてるのだが(これ以前にも書きましたっけね)、どんな神さんが降りてきてくださるかは、何を呑むかというよりかは場所が影響するんでないかしらと思う。

電車ゴトゴト、帰途につく。
夜に飲み込まれていく見慣れた街を歩きながら最後の一杯、缶を開ける。

神さんはそこらじゅうにいる。

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