見出し画像

さんだる持ってちょっとひと休み


この夏から今に至るまで、百圓均一で買い求めた、さんだるを履いている。
ここ数年、夏になるとなんかしらのさんだるを買って(または貰って)一夏中どこへでもそいつを履いて出て履き潰してしまう、というのを続けている。
今履いているので3代目若しくは4代目くらいになると思う。
靴下や靴の抑圧から暫し解放されて、日差や風を浴びる足、心地よいよい、やっぱりさんだるは楽ちんである。
憂うべきなのか、喜んでいいのやら、たった百圓でさんだるが買えてしまうなんて凄い時代だ。百圓で一夏過ごせるんだもの。
とはいえ当然デザイン性には乏しくて、すたいりっしゅだとは決して言い難く、なんならダサい。
僕はなぜこのさんだるを買ったのかというと必要に迫られたからで、この夏は此奴と過ごそうなんて微塵も思ってやいなかった。
ある日、足の小指をすっぱり切ってしまい一日経っても血がとまらず、二日目にも指から赤色が出るわ出るわで、靴を履こうにも小指があたって痛くて履けなかったので、びっこひきながら百圓均一に入り、もう何でも良いのだという捨て鉢な思いで買い求めたのだ。
しかし、てきとうに買ったとはいえ履き心地は決して悪くなくて、デザインに目を瞑れば別段問題なく使える(世の中の物は大体そんな感じだ)
百圓どころの使い心地ではないし、丈夫さも申し分ない。
僕はこのさんだるを履いてライブにだってレコーディングにだって行ってしまっている。ステージでは裸足で歌うから脱いでしまうのだけれど、会場にいるお客さんや友人知人たちは言わないだけで僕の貧相な足下を見て、もしかすると失望しているかもしれない、、。その時は、、もうしょうがない、諦めます。

デザインとは生き方のデザインである。
生き方の柄である。
みんな生き長える事を前提として、どういった柄で死ぬまで生きるのかを考えているし、どうゴールに辿り着くのかをのみ考えているのではなく其処に芸術点やら技術点をどう稼いでいくかに気を揉む。(のかもしれない)
じゃなきゃ、人間生きていくにあたって暖かいうちは百圓のさんだるで十分な筈だ。しかしみんなそんな考えになってしまえばここまで文化が多様化、肥大化するわけがない。
みんな百圓サンダルで良いと思ってしまえば文化が死んでしまう。経済もまわらぬ。つまらない。つまり人間は死んでしまうのだ、と一旦言い切ってしまうことにする。わからないけれど。
今じゃ安く済ませようと思えば3000圓ぐらいあれば上から下まで、それなりのとーたるこーでぃねいとができてしまう。だけれどみんなそうはしない。それを望まない。それで生きていこうとは思わない。楽しくない。

デザイン性と物の価格について昔から思うところがあるのだけれど、どうして安いものはデザイン性に乏しいもの、そう思ってしまうものが多いのだろうか。(一昔前はもっと酷かった気がする)凝ったデザインを諦めてシンプルに、、というものほど高かったりする。安いものほど余計なもの多かったり、、。
然るべき人に然るべきお金を渡すと自ずと物の値段が上がってしまうのだろうなと何となく考えてはみるものの、どうもぼんやりとして判然としない。芸術と貨幣価値の関係に似たり寄ったりなのだろうか。

安いものはダサいを自然の成り行きだと考えると、かっちょよくて、瀟酒でとびきりに安い物というのは不自然で、あり得ないものであり、仮にとてつもなくイカした百圓のさんだるが現れたなら、それは人類の終わりの始まりということになってしまうのだろうか。
とすると、安い百圓さんだるは決してつくっていはいけないという不文律があるのか。


「みんなを虜にする、かっちょいい百圓さんだるが後に人類を絶望の淵へと陥れるという事をこの時人間たちは知る由もなかった、、」

世界のどこかで悪の組織が人知れず、とんでもなくかっちょいい百圓さんだるをつくってるかもしれないと思うと、、あんまり眠れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?