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馬の香りと裁判官

馬小屋が何処かにあるのだろうか、動物の糞のような香りがする。
夥しい量の白いマスクを落ちている道を抜けて、シルバーゾーンを通り過ぎて、電車のガタゴトが後ろの方で微かに響くそんな中で馬の香りがした、馬の香りが。

午前の強い日差しは、風を生ぬるくして肌を撫でるというより絡みつくようにして過ぎていく。低い家屋が立ち並ぶここらでは、影があまりに少なくて陽を頭から被ってしまい、
剥き出しの黒い頭はどんどんと熱を帯びていく。晩夏とは思えぬしつこい暑さに辟易しながらも地図を広げ、道を間違っていない事を再度確認する。なるだけ最短の道のりで行きたい。

駅で飲み物を買っておけばよかったとほぞを噛み、途中コンビニエンスストアにでも寄ればいいだろうと下調べもせずにいたのが全くの間違いであった。自販機一つ見つからず、起き抜けの水も飲まずに来たものだから頭がクラクラし、ほんの少しでも影を求めて亡霊のように家屋の生垣に張り付くようにして歩く。
家々の間を通り過ぎると今度は田んぼ道で両側が緑に彩られた一面は、風に靡いてさざなみが立っている。しゃらしゃらと擦れる音は幾分、心涼やかだがそれなりの頻度で通る大きなトラックにいちいち遮られる。麦わら帽に白い長袖の老年農家は畦道の石に腰掛けタオルで顔を拭う。こうも暑いと、本当にくたばってしまうぞと心配になる。
緑の田んぼの中の白いシャツは海岸から見る孤島のように何処か寂しげだ。
手拭いも持たずに来てしまった僕は顎に滴る汗を手の甲に乗っけて振り払った。時間がない中でも体に塗りたくった日焼け止めクリイムの匂いが段々と不快になってきた。
将棋盤の目のような窓が張られた巨大な建物は市民プールとある。持ち合わせは何もないが帰りに泳ぐのもいいかも知れない。この夏どころか数年プールに入っていない。プールに入りたいと思う事が歳をとるにつれてなくなってきたが、こんな日ぐらいは水の中に体を埋めたい、そんな気になった。

あうう、あうう、あうう、と後ろから呻き声が聞こえてきたものだから驚いて振り返ると、(内心はそうのだが実際に泰然とした態度でゆっくりと振り返った)
ヘッドホンを首にかけたポロシャツにテニスシューズを履いた中年男性が僕を追い抜かしていくところで、黒い日傘をさした彼からも強い日焼け止めクリイムの匂いがした。日傘の中で彼のあうう、あうう、という呻き声がこだましている。
追い抜かされた彼の遠く向こうには、日焼けクリイムのより白い分厚い雲が張り付いてお空を離さない。
そんなにゆっくりと歩いているつもりは無いのだが、相当早足なのようで先ゆく彼にどんどん離されていく。距離がひらいても彼のあうう、あうう、あううという声はまだ聞こえてくる。
また馬の香りがした、気がした。

なんの為にあるのかわからない駐車場にぽつねんと自販機があった。
街中で見かけたならばぜったい買わないであろう顔揃えの自販機から消去法で一番値段の安いペットボトルのお茶を買う。一気に半分ほど呑み下し、側で腰を下ろして一息ついてからあの男が歩いたであろう一本道をゆく。もう彼の姿は見えない。
田んぼに挟まれた一本道を抜けて暫くすると国道にぶつかり、それは、誰もが思い浮かべるものと相違ないであろう、ありきたりで退屈な国道であった。彼の他にはひとっこひとり歩く人が見当たらない。自動車が騒々しく行き交うここでは馬の香りは全くしない。




国道を横断し、僕は裁判所の門を潜った。







スポーツメーカーCHAMPIONのwebCMの音楽担当させてきただきました
豪華なバンドメンバーでレコーディングをしましたので、気にしていただければ嬉しいです

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