マスクを外した異性にエロを感じるようになった話

私はコロナ以降、マスクを外した異性にエロを感じるようになった。なぜそうなったのか考察してみる。


まず、エロについて、バタイユはエロティシズムの本質を「禁止を侵犯すること」としている。


バタイユはセックスを例にしているが、セックスは相手の身体を侵すことであり、それは本来禁止されたことだ。誰もが他人からセックスの許可を得ることはできず、セックスは許された人間だけができる行為だからだ。


であるならば、コロナによってマスクが推奨され、他人の素顔はマスクによって隠された。外に出れば人はマスクをし、他人に自分の素顔を隠す。その結果、マスクを外して素顔を見せるのが恥ずかしいという女性が増えた。他人にマスクを外した素顔を見せるのが恥ずかしいということは、他人はその女性のマスクの下の素顔を見せることが禁止されたということだ。時代を遡れば卑弥呼は神聖な存在として一部の人間以外には姿を見せなかった。それ以降の時代でも日本の天皇や中国皇帝は神聖で高貴な存在としてその姿や素顔を誰彼構わず見せることはしなかった。彼らの素顔を見ることは禁止され、それが許されたのは一部の人間だけだった。今では緩和されたが、感染対策によって人に素顔を見せなくなった人々は、飲食や親密な相手以外にはマスクを外す機会が極端に減少した。それによって意図せずして人のマスクの下の素顔というものは簡単には見ることのできない希少なものとなった。その希少性と、「人前ではマスクをしなければならない」というモラルによって、異性の素顔というものの価値は向上した。


先程バタイユはエロティシズムの本質を「禁止を侵犯すること」としていると書いたが、他人の素顔もコロナ禍によってこれに含まれるようになったように思う。何か理由が無ければ人はマスクを外して素顔を見せないし、マスクを外すことが恥ずかしいとさえ思う人が現れた。それは人が自分の素顔を神聖なもので、他人に晒すことを特別視し始めたからだ。人がセックスで自分の身を他人に預けるように、マスクを外すことはどこかリスクを犯す行為で自分の恥部を曝け出す行為と変化した。そのような意識が人に芽生えたからこそ、私の中で異性の素顔にエロを感じるようになったのだと思う。侵犯や禁止、神聖さは穢れの感覚に近いものがあり、性器や人の裸には汚らわしさが存在する。人は普段、衣服によって裸を隠しており、それがあらわになるからこそ異性の裸体に人は興奮する。これと同じようにマスクによって人の顔が神聖で汚らわしいものとなった。実際、マスクを付けているときのほうが人の顔は良く見える。普段異性のマスク姿しか見ることのできないような環境では、異性の素顔には裸体と同じように性的興奮を与えるエロティックなものになる。

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