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🥀 王道を歩む 寛容の美徳 (私文:仏法真理へのきっかけ② )🥀

大川隆法総裁先生 書籍・人生の王道を語る 参照です。

「同じ人間でありながら、こんな人は許せない」と思うような人に対しても、「考えてみれば、その人にも父親や母親はいたはずだ。その人にも愛しい子供がいるかもしれないのだ。その人だって友人がいるはずなのだ。彼を是しと見る人、素晴らしいと見る人だっているはずなのだ。その人を、その全人格を、いま自分は否定しようとしているのではないか。たいへんな間違いを犯そうとしているのかもしれない」と考えていただきたいのです。

「我、必ずしも真ならず、彼、必ずしも偽ならず、悪ならず」ということを、心のどこかに留めていただきたいのです。それが寛容ということだと思うのです。寛容の美徳は、これも決して道徳的なものだけではありません。

それで他の人がよろこぶからということだけではありません。寛容さのなかには、みずからの心の湖面に波をたたせないという美徳があるのです。これは幸せなのです。寛容さを発揮することによって、この幸福な状態を続けることができるのです。みずからも完全な人間ではありません。

ゆえに、他の人もそうでしょう。「その人の長所と交われば悪人はいない」と言うではありませんか。怒りの瞬間に、相手の長所を思い出すことができるでしょうか。その人の優れたところを考えることができるでしょうか。できないでしょう。

私たちは、この平静心を学んだならば、かりそめにも短気を起こして、他の人の全人格を否定するようなことだけは慎まねばならないと思います。誤解は、いつか解けていくものです。

また、仏教でも、「恨み心で恨みは解けない」とい言うではありませんか。ですから、「みずからが害を受けたと思っても、それを恨んではならない。それをとかすものは愛である。恨み心を解くものは、絶えず熱や光を与えるあの太陽のごとき慈愛である」、私はそう思うのです。

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(私文:仏法真理へのきっかけ②)
私が信仰の道に入ったきっかけは、当時、1986年に私はロサンゼルスでお寿司屋を経営していました。日本の兄貴から「お母さんは胃がんで長くはないだろう」と言われていました。お母さんが死んでしまった時に、日本に帰ろうと考えましたが、いろいろなことがあり、とうとう帰ることが出来ませんでした。お母さんは東京で魚屋を長年経営していた人なので、遺言として「私が死んでも、お店は休んではいけない」というものでした。朝の五時にお店に入り、仕込みをしている時に、ラジオから流れてくる「坂本九の”Sukiyaki”(上を向いて歩こう)」を聞くたびに涙が流れました。今お母さんは死んでどうなったのだろう??どこにいるのだろう?? いつも考えていました。そんな時に、ビジネスパートナーが一冊の本を持ってきてくれました。「日蓮の霊言」という本です。人間の死後について書かれてありました。以来、「大川隆法総裁先生」の本をたくさん読み、会員になった次第です。あれからもう三十年以上仏法真理の勉強を続けています。だから、心の底から、”本物の宗教” と信じ、みなさんにお伝えしているのです。これからも頑張って投稿していくので、よろしくお願いします。

最後まで読んで頂いて、 本当にありがとうございました。


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