美食家の夜会

  俺は肉が食べられない。血肉の生臭さが苦手だ。以前は肉が嫌いではなかった。それが大学生の時、友人三人と行った中華人民共和国への旅行がきっかけで肉が食べられなくなった。
 旅行二日目。俺は北京市内にある安宿の一室で休んでいた。友人たちと北京近郊の観光に行く予定だったのだが、俺はその日の朝から片頭痛がひどくて外に行く余裕はなかった。そこで友人たちには観光に行ってもらい、自分は宿に残って留守番をすることにした。
 その後、痛み止めの薬が効いたのか昼過ぎまでベッドで休んでいたらすっかり体調が良くなった。お腹が空いたのでどこかの食堂に行こうと宿をあとにした。安宿が建っているのは観光地から離れた場所であるために区画整理がいい加減だった。古い建物と新しい建物が乱雑に軒を連ねていた。掘っ立て小屋のような民家を限られたスペースに何件も無理やり詰め込んで建てているせいで通路も狭かった。まるで迷宮のように張り巡らされた通路を歩いていると簡単に迷い込んでしまうような気がした。雑居ビルが密集している場所かと思えばいきなり胡散臭い土産を売っている出店があったりと意味が分からなかった。
 そうこうして、五分ほど雑踏をうろついた後にいかにも庶民むけの食堂といった趣のある飲食店に入った。店内の茶色に汚れた壁には黄色の紙が何十枚も貼ってあり、その紙にそれぞれ簡体字で品名が書いてあった。俺は簡単な中国語なら理解できたので水餃子と肉入りの饅頭を注文した。店主は小太りの中年男だった。よそ者の自分にもニコニコと笑顔で愛想よく対応してくれた。料理の腕前もなかなかなものであった。餃子と饅頭の生地の中に詰め込まれた肉が旨かったのを覚えている。その肉はなんとも言えないコクがあってクセになる味だった。こんなに料理が旨くて店主の対応も良いのに店は空いていた。四十人ぐらいは入れる店だったが客は俺を含めて二人だけ。昼時にしては少なかった。確かに店の設備は良い状況とは言えなかった。照明器具は天井から剥き出しに吊るされた裸電球だけであり、空調設備は埃をかぶった扇風機一基だけという有様だ。旅行当時、季節は春先だったから問題は無かったがもし、あれが夏だったら暑くてたまらなかっただろう。
 俺は料理を気に入ったから店主に「ここの料理は旨いですね。これは何の肉ですか?」と訊いてみた。
 すると店主は「気に入って頂いてありがとうございます。いや、肉は言うほど大したものじゃありませんよ。実は余り物の色んな肉を混ぜ込んだだけなんです」と厨房の熱気で汗だくになった顔をほころばせながら言った。
 俺はおかわりを注文して平らげた後、会計を済ませてから退店した。料金も安くて財布にも親切で助かった。
その後、すっかり体調が良くなって三日目、四日目は友人たちと一緒に観光を楽しんだ。
 五日目の夜は友人の中にオカルト好きな奴がいて、そいつの提案で遼寧省の山間部に存在している廃墟に向かうことになった。自分も面白そうだと思って提案に賛同した。ただ、何の準備もなしに思いつきで始めたために当然ながら現地で迷い込んだ。それほど大きな山ではないのだが周囲には深い森が広がっており、目的の廃墟はその森の奥にあるということだった。ところが森に入って早々に道に迷ってしまったのだ。
 俺たちは口喧嘩をしながら茂みを掻き分けて進んでいると急に開けた場所に出た。そして、その先に〈深山酒家〉と筆で記された扁額が掛かった一軒の建物が見えてきた。扁額の文字はだいぶ消えかかっており、建材は簡素な木材と石材でできていたが長い年月を風雪に曝されたせいでだいぶ傷んでいた。木の柱は腐りかけ、石の壁には亀裂が走っていた。廃墟と言ってもおかしくはないのだが軒下の格子窓からぼんやりと灯りが漏れていた。
 俺たちはその建物が気になって近づいてみることにした。懐中電灯を手にゆっくりと忍び歩くように歩を進めた。入り口の手前まで進んだ途端、軋む音をたてながら入り口の扉が開き、中から人影が出てきた────と、俺は懐中電灯の光芒の先に浮かび上がった人影の正体に愕然とした。
相手は二日目に訪れた食堂の店主だったのだ。店主ははじめこそ警戒していたがすぐに俺のことを思い出したのか「おや、この前のお客様ではありませんか」と微笑んだ。
 ここから店主との噛み合わない会話が始まった。
 店主は驚きもせずに「それにしてもさすがは舌の肥えたお客様だ。この美食家の集い場所を見つけ出し、生きのいい食材まで持ち込んで下さるとは実に見事です」と手をたたき、称賛しながら言った。 
 「あの、食材って?」
 俺には意味が分からなかった。食材を持ってきた覚えもないし、そもそも店主は俺がいきなり現れたのにどうして驚かないのだろうか?北京から遼寧省までの距離はかなりのものだ。それに美食家の集いが何なのかも知らなかった。
 俺は何の事かと質問したのだが店主は「お客様はご冗談がお好きですね。ここは我々のような人食鬼に人肉料理を振る舞う店ですよ」 
 俺は自分の耳を疑った。この現代社会においてカニバリズムが行われているなんてあり得ないことだし、人食鬼などという怪物だっているわけがないと思った。
「人肉だって? 恐ろしい冗談はやめてください」
「いえ冗談ではありません。この前、お客様だってうちの店で人肉をお食べになったではありませんか」と店主は口元こそ微笑んではいたがその眼差しは真剣だった。
 「それにこうして食材をお持ちになったわけですし…ああ、なるほど。食いしん坊だと思われるのが恥ずかしいのですね。ご心配なく。私もかなりの大食漢ですから」
 店主はでっぷりと突き出た腹を軽く叩きながらガハハハっと下品に嗤った。
 俺と店主の噛み合っていない会話を目の前で見ていた友人たちは不安げに「どうゆうこと?」と訊いてきた。だが、俺は店主が本物の人喰いであり、相手が食材としきりに言っていたのが友人たちのことだと気づいて怯えていたから返事もまともにできなかった。それに相手に自分が偶然にも人肉を食べてしまっただけの人間だと気づかれるのも危険だと思った。いくら勘が鈍そうな店主でも、これ以上こちらが動揺を見せれば疑うに違いない。俺は非情にもこの時点で自分一人だけが逃げることを考えていた。
 「お客様も店内でお座りになってお待ちください。我が会自慢の料理人が食材を解体しますので」
 店主がそう言うと、地響きと共に建物の奥から鉈を持った巨漢が出てきた。身長は二メートルもあり、血のように赤い瞳を光らせながら右手に鉈、左手に人間が数人入りそうな空の麻袋を持っていた。そして、凄まじいスピードでこちらに迫ってきた。
 悲鳴を上げながら逃げ惑う友人たちに人食鬼の巨漢が襲いかかった。まず、友人の一人を捕らえるとすぐに首を跳ね上げてしまった。恐れおののく表情を張り付かせた生首が血しぶきを噴き上げなら空中を舞い、俺の足元に転がった。
 「助けてくれ!」と残りの友人たちは助けを求めたが俺は人食鬼たちに自分が同胞ではないとバレるのが怖くて彼らも見殺しにした。友人たちが巨漢に捕まって惨殺されていく中、俺は必死に腹痛を演じ、体調不良を理由に退去を申し出る。
「それは残念ですね。またの機会にしましょう。ところで食材はどうします?」
「ああ、アレならお好きにどうぞ」と俺は血生臭ささに吐き気を催しつつ、友人たちの悲鳴を背に泣きながら走って逃げ出した。
「またどこかでお会いしましょう」
 背後で店主の不気味だと感じるぐらいに明るい声がしたが、追ってくる気配はなかった。新鮮な人間の肉に満足したのかも知れない。
 俺は真っ暗な森の獣道を一心不乱に駆け続けた。道中で何度も茂みの枝先が肌を傷つけたが、それを気にしている余裕などなかった。それ以降の記憶は曖昧ではっきりとしない。どうやって北京まで戻ったのかはわからないが、目覚めた時にはホテルのベッドで横になっていた。悪夢だと思いたかったが部屋には友人の荷物が置いたままになっていて、当然ながら彼らの姿はなかった。衝動的に友人の荷物を処分してしまった。友人を見殺しにしたことが世間に露見することを恐れたのかもしれない。
 俺はすぐに地元の警察に自分や友人に起こった事件を伝えたのだが、あまり真剣にとりあってはくれなかった。
「ひとまず、友人は失踪者という扱いでこちらで捜索しておくから、アンタは自分の国に帰りなさい」と受付のカウンターで追い返されてしまった。
 帰り際、近くでこちらの様子を窺っていた三十歳ぐらの警察官が近づいて来るなり「こっちで処理しておくよ。何も心配はしなくていい。美食家はみんな仲間だからな」と耳元で囁いた。警察官は唇の両端を吊り上げ、白い歯を見せてニヤリと嗤った。その笑顔が妙に不気味で今も脳裏に焼き付いている。
 その後、俺は日本に帰国した。友人の荷物を現地で処分するなど証拠隠滅に走っておきながら罪悪感に苛まれていた。いつ警察や友人の家族から連絡が来るのかとびくびくしながら日々を過ごした。だが、半年経っても誰かに追及されることはなく、いつも通りの日常が過ぎていくだけだった。大学ではどういうわけか友人たちの存在が消されていた。顔なじみの学友らも彼らのことをまったく覚えてはいなかった。十年が過ぎても友人たちの死体は見つかっていない。
 おそらく食堂の店主は人食鬼の組織内に顔がきく存在なのだろう。そして、店主は自分の店で出しているメニューを絶賛した俺を気に入っており、人食鬼になったばかりの存在だと認識して証拠隠滅してくれたのかもしれない。だとすれば人食鬼たちは世界中に跋扈しており、その組織は裏で政府にまで影響を与えられる力があるということになる。
 俺には難しいことはわからない。だが、はっきりしているのは肉が食べられなくなったということだ。肉が苦手だ。そう。俺は人肉以外の肉を食べられない体になった。鳥もだめ。豚もだめ。牛もだめ。魚肉もだめ。どれもどんな料理でも血生臭さく感じて吐いてしまう。ああ、野菜は普通に食べられるが肉だけはだめだ。人肉でないとだめだ。
 俺は店主の料理を口にした時点で人食鬼の仲間になってしまったのだ。徐々に人間としての理性を失い始めている……。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?