新聞は知識よりも「情報」を得るもの

 新聞やテレビなどのマスメディアがニュースや特集で伝えるのは主に「情報」であって、まとまった「知識」を伝えるには限界があると、ずっと思っていた。「情報」を知ったとしても教養が身につくわけではない。次にどうすべきか、というヒントや、これはこういう話だったのかという解釈ができるようになるだけだ。

 いま、起きている事象を切り取り、それがどんな意味を持つのか、われわれはそれを知ってどう動くべきなのか、を伝える。それが情報を伝達するメディアの役割だと思う。

 「情報」の定義で、一番共感できるのが「文字・数字などの記号やシンボルの媒体によって伝達され、受け手に状況に対する知識や適切な判断を生じさせるもの」(デジタル大辞泉)、あるいは「状況に関する知識に変化をもたらすもの。文字、数字などの記号、音声など、いろいろの媒体によって伝えられる。インフォメーション」(精選版 日本国語大辞典)だ。

 だから、新聞は、簡潔で明快な記事が求められる。取材の段階ではいろいろな人に会い、自由に「考え」を述べてもらうし、いろいろな「事実」を教えてもらう。けれど、まとめる段階になると、間違いがないと思われる事実だけを伝え、それをどう解釈するかについては複数の人のコメントを併記して、解釈の幅を見せる。

 新聞などが伝える情報は、学校などで学ぶ普遍的な知識とはかなり種類の違うコンテンツなのである。それだけに、新しい、有用な情報を伝えたいと思う。

 「延命治療や緩和ケアの選択、望む最期、迎えるには」の記事ではどのように取材先を選んだのかーーを書きたい。

 大きなテーマであればあるほど、政府の検討会などで議論していることが多い。その議事録がとても役に立つ。報告書の段階になると、構成員の個々の発言内容は書かれておらず、議論を平らにして丸めているため、インパクトが薄くなる傾向がある。でも、議事録を読むと、メンバー尖った発言がそのまま出ていて面白い。そして、「この人は本気で発言している(業界や団体の建前ではなく)」と思う人にインタビューを申し込む。

 「望む最期、迎えるには」の記事では検討会メンバーの木澤義之神戸大学医学部附属病院緩和支持治療科特命教授(当時)にインタビューを申し込んだ。ACPについて、検討会初回のプレゼンを任されるほど詳しい方だ。彼のパワポの資料は貴重だ。

アドバンス・ケア・プランニング Advance Care Planning(ACP):定義
 今後の治療・療養について患者・家族と医療従 事者があらかじめ話し合う自発的なプロセス
– 患者が望めば、家族や友人とともに行われる
– 患者が同意のもと、話し合いの結果が記述され、定期的 に見直され、ケアにかかわる人々の間で共有されること が望ましい。
– ACPの話し合いは以下の内容を含む • 患者本人の気がかりや意向
• 患者の価値観や目標
• 病状や予後の理解
• 治療や療養に関する意向や選好、その提供体制
http://www.ncpc.org.uk/sites/default/files/AdvanceCarePlanning.pdf

 年齢と病期にかかわらず、成人患者と、価値、 人生の目標、将来の医療に関する望みを理解し 共有し合うプロセスのこと
 ACPの目標は、重篤な疾患ならびに慢性疾患に おいて、患者の価値や目標、選好を実際に受け る医療に反映させること
 多くの患者にとって、このプロセスには自分が 意思決定できなくなったときに備えて、信用で きる人もしくは人々を選定しておくことを含む
定義続き1
 ACPは患者、信頼できる人々、医療従事者とともに行わ れることが望ましい
 話し合いは、患者が自分の病状や予後、これからの治療 についてどれくらい知っておきたいか、のレディネスに 応じて行われる
 ACPは健康状態や患者の生活状況が変わるごとに繰り返 し行われるべきである
 はじめに、ACPは患者が最も大切にしていることに基づ いて意思決定ができるように、医学的ケアの全体として の目標が何か、に焦点を当てる必要がある
 また、患者が自ら意思決定ができなくなったときに備え て、患者に成り代わって意思決定を行う信用できる人 (人々)を選定することにも焦点が当てられる
定義続き 2
 患者の健康状態が変化するに従って、ACPは特定の治 療やケアについてどうしていくかに焦点が移っていく
 治療の決定は医療従事者とともに、法令に従い、患者 の変化していく健康状態や予後について共通理解を得 ながら行われるべきである
 話し合いの内容は、信用できる人(人々)ならびに医 療従事者とともに話し合った後で記録に残し共有され るべきである
 記録された内容は、必要となった時にすぐに参照でき るように保存され、必要に応じて更新されるべきである

 「望む最期、迎えるには」では、3人の主な取材者の発言が入り組んでいて、ちょっと読みにくいかもしれないが、それぞれの方に多くの視点を示していただいたので、そんな形になった。

 ただ、今回の記事は、渡辺敏恵氏、木澤義之氏、日本尊厳死協会、厚生労働省などへの取材でまとめれば十分だったのではと感じられる人も多いかもしれない。その方が個々の取材内容を、もう少し詳しく伝えられるからだ。

 ただ、ACPの概念の紹介からさらに進んで、どんな終末期を具体的に過ごすか、どう医師は対処すべきなのかについてしっかり書こうと思うと、どうしても、在宅緩和ケア充実診療所、ケアタウン小平クリニック(東京都小平市)の山崎章郎院長、めぐみ在宅クリニック(横浜市)の小沢竹俊院長、日本医師会の横倉義武会長(当時)の3氏にお話を伺う必要があった。彼らの話を聞くことで、終末期の医療、ケアの姿やACPの課題などがよりリアルに見えてくると考えた。そして、読者にもぜひ、アクセスしてほしい3者なので、紙面で紹介したかった。

 取材は通常、1時間程度、時間をとっていただいて行う。少なくとも30分はお話をすることが多い。しかし、できるだけ、良い記事を書きたいと思って、いろいろ取材をするために、いざ紙面になると一人の取材先のコメントは数行程度になってしまう。それぞれのインタビューをほぼ100%紹介できたらといつも思う。新聞社を離れたら、インタビューすべてをPodcastで流して関心のある人にはより詳細を聞いていただくようなこともしたいと思っていた。

 もちろん、紙面で発言を詳しく紹介できなかったとしても、多くの人に取材した方が、より全体のストーリーの客観性は増し、真実に迫れる。文章の展開、構成、重点の置き方などは、取材した量と質によってずいぶん変わる。決してむだにはならない。

 新聞は「情報」を得るものと割り切っていただきたい。もう少し中身を知りたいと思ったら、新聞で紹介されている人を手がかりにさらに著書や資料を読んで、知識を深めていってもらいたい。

 新聞でコメントをしている人がいたら、記者は、なぜ「この人」に取材したかったのだろうか、と考えてみてほしい。

 記事のテーマを語っていただくのに適任、という人たちだけではない。ふだんから著書などを読んで気になっている人たちも対象になる。機会があればお会いして、お話をしてみたいという人たち。必ずしも目先の記事のテーマにぴったりの方ではないかもしれないが、逆に、意外なコメントも期待できる。

 ケアタウン小平クリニック(東京都小平市)の山崎章郎院長がそんな方だった。

 山崎章郎氏には『病院で死ぬということ』という名著がある。単行本が1990年10月、主婦の友社から刊行され、96年5月に文春文庫で刊行された。

 肺炎で気管切開を施され、声が出なくなった男性。その後、末期の食道癌であることがわかり、飲食物の経口摂取が禁止された。そして、「中心静脈栄養法」でチューブから栄養が補給されるようになる。当時はがんの告知はされなかった時代で、「必ずよくなるから頑張って」と妻も見舞いに来た友人も言う。本人の意向は無視され、ただただ、延命のための苦しい治療が続く。そして、そんな措置が続くことに抗う力もなくなっていき、死を迎える。

 こうした実際に起きた事例を紹介しながら、「病院は人間が死んでいく場所としてふさわしくない」と山崎氏は語る。

  山崎氏の『死の体験授業』(サンマーク出版、2015年2月刊)も興味深い読み物だった。2009年4月から2013年3月にかけて、山崎氏が武蔵野美術大学で行った「<からだ>と<こころ>の人間学」の講義のうち、前期に行った「人の体験旅行」というワークショップを柱に、まとめたものだ。

 自分にとって大切なものーー大切な人、大切な物、大切な自然環境、大切な活動ーーを合わせて20個あげてもらう。そのあと、静かな音楽を流しながら目をつぶり自らの体調の異変に気づく場面、医師からがんを告知された場面、さらに少しずつ病気が進行してこの世を去るまでのプロセスを追体験してもらう。その過程で、自らがあげた大切なものを少しずつ手放していく。そして死ぬ瞬間にもっとも大切にしているものが一つだけ残る。

 死の体験旅行のあとに、「余命3ヵ月と宣告されたと仮定して、あなたがもっとも大切だと思う人に宛てて手紙を書く」という課題が課せられる。

 同書では授業の内容紹介だけでなく、亡くなる前に行うべき五つのことーー「感謝する」「謝る」「許す」「愛する」「祈る」や、緩和ケアで取り除くべき苦痛ーー肉体的苦痛、社会的苦痛、心理的苦痛、スピリチュアル・ペインーーなど、死に向かう人やその家族、友人にとって大事な話をふんだんに盛り込んでいる。

 取材は、まず、いま書かなければならない記事のため行うが、その記事を書いた後も、その記事の先にあるものに近づくために、いただいた取材の時間は大事にしている。「必要なコメントをとれば終わり」ではなく、時間いっぱい、気になること、関心のあることを伺う。

 2018年3月22日に行った山崎氏へのインタビュー音声を起こしてみよう。紙面に載った発言がほんの一部であることがわかるだろう。

 最初、レコーダーのスイッチを押すのを忘れていたらしく、インタビューの途中から録音されている。最初は、がんなどが見つかった時の病名や余命の告知のことを伺っている。

山崎 最近は診断がついた時点で、病名のみならず余命告知をするドクターもいたりします。

ーーいたりして、ということなんですか。もう、当たり前になっているのかと思いました。

山崎 余命についてはいきなり告知をするのは、私はどうかなと思っています。診断がついただけでも患者は衝撃を受けているわけだから、その診断に基づいて、どんな治療があるのかを話していくなかで、治療のプロセスもみながら、お話ししていくような丁寧さがないと、患者にとっては衝撃的な情報になってしまうと思うんです。過去においては、いかに本人に病名を隠すかで努力してきたわけで、180度違う流れになっています。

 自分の病名や状況を知らないままに、しかも「がんばれば治る」みたいな話をされて医療を受けてきた人たちがほとんどでした。でも、限られらた人生ならば、余計に自分らしい人生を生きていきたいと思うのではないでしょうか。そのための基本情報が伝えられなかったわけです。かつてがんは不治の病だったとしても自分の人生を生きる権利があるのだから、自分の病気について知る権利があるのではないかという反省のもとに終末期医療の改善があったわけです。そうした中でホスピスの取り組みが進んできて、在宅ホスピスも広がってきた。

 治療の現場で余命を告知することが多くなっている。以前は「がんです」と伝えたとしても余命まで告知することはそんなにはなかった。我々が在宅の緩和ケアを行うなかで患者さんと話していると、治療現場で、病名と一緒に余命まで告知されてしまうことが増えていると感じています。

ーーインフォームド・コンセントについても山崎さんは著書で書かれていますね。インフォームド・コンセントというと、病院側が後で責任を問われないように、手術の内容や治療方法を、いろいろなリスクも明らかにしながら患者や家族に説明して同意を得るもの、というイメージがあるのですが、もともとは患者の「知る権利」に基づく情報提供なのですか。そして、包み隠さず、情報を伝えろという意味があるーー。

山崎 インフォームド・コンセントは日本医師会が1990年に「説明と同意」という翻訳をしてから日本に入ってきました。アメリカでは1960年代に患者の権利運動として広まってきたんですね。医療訴訟が頻発するなかで医療側がきちんと説明をしていないと訴訟に負けるという流れがあった。患者さんたちも自分の病気についてきちんと知りたいと、権利を主張したんですね。昔はアメリカでも患者さんに本当のことを言わない傾向があったので。パターナリズム(強い立場にある人が、弱い立場にある人の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援すること)が基本原則でしたから、専門家でない一般の人に対して、専門家のいう通りにしてくださいと言っていたのだけれど、医療ですから現実にはいろいろな問題が起こってくる。医療訴訟が起きるとほとんどの場合、医療側が負けた。なぜ負けたかというと、説明が足りなかったとか、こんなになるのだったら、この治療に同意しなかったとかいう患者側の主張が通ったからなんです。

 1973年にアメリカ病院協会が「患者の権利章典」を作りました。その中でインフォームド・コンセント、医療行為に関して適切な説明を受ける権利が患者にあるということが書き込まれているんです。

 そして、インフォームド・コンセントの性格が変わってきた。訴訟を起こされても負けなくなってきたんですね。負けないようにするために過剰なまでの説明がなされるようになってきた。ありとあらゆる可能性の話をする。

ーー心配になるくらい、いろいろ説明されますね。

山崎 でも一つひとつの説明内容は起こりうることなんですよ。本来は患者の権利であり、患者が自己選択しやすいような情報の提供だったのですが、途中から医療側が自分たちを守るための説明に変わってきている。

ーー告知に関しては、厚生労働省や医師会がガイドラインを作るみたいなきっかけがあって、多くの医師が告知をするようになったわけではないのですか。

山崎 通達などがあったわけではなく、告知はじわじわと広がってきたんですね。余命を告知されたという声もだんだん、現場で聞くようになりました。余命告知までされるようになったのは、この5、6年くらいの話でしょうか。あくまでも印象にすぎませんが。

ーー厚生労働省が「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」を改訂、医療・ケアの方針や、どのような生き方を望むか等を、日頃から繰り返し話し合うこと(=ACPの取り組み)の重要性を強調、医療・ケアチームが対応に当たるとされました。日本医師会のガイドラインを見ると、医療・ケアチームについては「かかりつけ医を中心に多職種が協働」するとされています。でも、果たして、いまのかかりつけ医や介護職の方が、人生の最終段階にある人の話をしっかり聞いてあげられるのか心配です。

山崎 いま、何が起こっていて、これからどんなことが起こるのかがわかって、はじめて、それならばこういう選択肢があると指し示すことができる。それがアドバンス・ケア・プランニング(ACP)です。我々在宅緩和ケア医は、在宅での緩和ケアが始まってから、患者さん達とこれから先の時間をどう過ごしていくのか、どんなことが起こりうるのか、それに対してどんなことができるのかーーを説明するわけです。

 我々が取り組んでいるのは在宅医療ではなく、在宅緩和ケアです。医療的支援もするけれど、大事なのは、時間があまり残されていない方達と、残る人生でどういう物語を作り上げていくか、その物語に家族はどう参加していくのか、我々はどう参加するのかーーというあらすじを確認しておくことなんです。それは、ACPそのものだと思います。

ーー山崎さんのような緩和ケア医が大勢いればそのようなことができると思うのですがーー。

山崎 われわれのような医者がいればいいという話になってしまうと問題は矮小化されてしまう。課題をどう解決していくかについては、モデルがあるわけだから、自分たちの力量に応じてどう対応するかを考えていくということが大切だと思います。医療側だけが情報を持っているわけではなくて、家族や本人の情報も持っているので、それらをもとに話を進めていく。そうすると医療側の恣意的判断が避けられると思います。これから状況が悪くなっていくことが多いので、その時にどのような選択肢があって、どうしますかという大まかな筋書きを作っておく。病状がよくならないなら入院はしない、あるいは病状がよくなるなら入院するといった判断材料が早い段階で医師と本人、家族の間で共有できればいいと思います。

 具体的には、これから老化が進んで食事ができなくなったらどうするとか、体が衰えてきたときに自宅にいたいか?その場合はこんな支援が用意されているが、どうしますか?といった話をします。

ーー医師も忙しいので、例えば65歳になったばかりの人を集めて研修を実施して、今後の人生で起こりうることを示したうえで、一度、どうしたいかを考えるような時間を設けることも必要かもしれませんね。

山崎 人生には必ず終わりが来るという大前提がある。人生のライフサイクルの中では必ず下降期を迎える。でも日本人って自分はいつまでも死なないと思っているのかと思うほど、そうしたことをあまり考えないですね。

ーー緩和ケア医は、スピリチュアルケアも行いますから、患者さんの人生に常に寄り添っていると思うのですが、病気を治すことが主な仕事の医師が、ACPに対応できるのかと、思ってしまいます。

山崎 在宅医の多くは病院の経験だけで医療を行う。患者さんにも病院医療の視点で対応するわけです。患者さんの病状に目を向けても、患者さんがどんな人生を送ってきたかとか、いまどんな問題を抱えているかまでは関心を持たない。ただ、そこで我々のような医師がたくさんいればいいという話で終わらせたくないので、「在宅緩和ケア充実診療所」という制度作りに力を尽くしてきました。この制度によって、まず患者さんたちが自分たちの話を聞いてくれるような診療所を選べるようになった。「緩和ケア」という言葉の意味も深めていけるようになりました。

ーーそうした「患者さんたちと寄り添う」という緩和ケアの考え方が広まらないと単に、本人が家族、医療チームと話し合ってACPを進めると言っても話が深まらない気がします。

 この後もインタビューは続くが、死に至る病になったときに、どれだけ診断で、真実が伝えられるか、そして、国がガイドラインでACPを推奨しても医師が十分に対応できるかが気になっていた。そんな話も山崎氏には聞いていた。

 「望む最期 迎えるには」の記事が出てから1週間後に私の母が亡くなった。グループホームで夕方に亡くなったのだが、かかりつけ医が近くにいなかったため死亡確認のため救急車を呼んだ。ところが、母は息がないのに形式的に心臓マッサージなどを行う。「延命措置は不要です」と叫んだ。警察病院に運ばれ、ようやく夜7時51分に死亡が確認された。

 私の母は重度の認知症で、介護や死にまつわる記事がこのころ多かった。そうした生活実感に基づいた記事をもう少し紹介しながら、「何を考えて記事を書いていたか」を明らかにしよう。


■すっ飛ばし要約(時間のない人はこちらだけ読んでください)

新聞記事は字数も限られており、伝えられることは限られている。読者はそこから、さらに知識を深めるためのヒントを読み取ってほしい。

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