シェア
昔テレビで流れていたオリエンタルマースカレーのCMで、最後に「ハヤシもあるでよぉ」と言うのが何だか面白く、「〜でよぉ」が幼稚園で流行った。広島の幼稚園で、みんな、名古屋弁と知らないまま真似をしていた。 最初に使い出したのは為末君だったと思う。ゴレンジャーごっこか何かをしていて、「まだ(悪者が)おったでよぉ!」と言ったのである。 それの何が面白いのだか、今はまるでわからないけれど、その時には随分可笑しくて、全員転げ回ってゲラゲラ笑った。涎を垂らして笑う者までいたように思う
昔、もうじき大学受験という頃に母が、今日は塾の帰りにどこかでご飯を食べて帰って来なさいとお金をくれたことがあった。 塾は広島駅前だったから、食べる店は周辺にいくらもある。どこにしようかと思っていたらカレー屋の看板が目に入った。 この看板は前々から見ているが、店がどこにあるのかわからない。この際それを突き止めてやろうと決めて看板の示す通りに進んだら狭い路地の奥にあった。これではわからないはずだ。 『笑ゥせぇるすまん』に出てきそうな感じの店で、高校生が一人で入るにはちょっ
大学時代、学校の近くに行きつけの喫茶店が3軒あった。その内2軒――ギャルソンとTARO――については先日書いたから、今回は□□について書いてみる。 この店だけ伏せ字にするのは、もしも関係者が読んだ場合にきっといい気がしない内容だからである。 ※ □□のカレーは不味かった。何しろ苦かった。きっと焦がしたのだろうと最初は思ったけれど、いつ食っても同様に苦い。事によるとこれがこの店の味なのかもしれないと思ったから、以後ここでカレーを食うのは止しておいた。 □□の店主は
父方の祖母が作るカレーは黄色かった。祖父母も父も叔母も叔父もそれにソースをかけて食べていた。 あるとき叔母が「裕君もソースかける?」と言ってくれたが、カレーにソースをかけるなんて考えたこともなく、何だか冗談みたいに思えたから、「カレーにソースかけるの? えぇ? へーんなの」みたいなことを云って断った。善意で訊いてくれたのに、随分悪いことをしたと思う。 カレーにソースをかけることについて、母はあんまりいい顔をしなかった。子供の時分にはわからなかったが、その辺りは恐らく嫁
大学時代、音楽仲間の辻が随分格好いい曲を作ってきた。 「君、何だかボン・ジョヴィみたいで格好いいじゃぁないか」 「そうだろう。そういうイメージにするつもりで、服部緑地でカップルがたくさんいるのを眺めながら作ったのだよ」 辻の中では『ボン・ジョヴィ=カップル』となっているらしい。 「それはご苦労だったね。しかし君のような長髪メタル野郎がいきなりギターを持って側に来たのなら、きっと気持ち悪かったろうね」 「あぁ、すぐにみんな逃げて行ったよ」 他人の雰囲気を壊すという行為が
小5の時、町内に新しいショッピングセンター『ひろでん』ができ、早速行った母がカレー焼きとクリーム焼きを買ってきた。 カレー焼き・クリーム焼きは大判焼きを細長くしたような形で、中にそれぞれカレー、カスタードクリームが入っていた。どちらも美味くて、その後もちょくちょく買ってもらった。確か、1個50円ぐらいだったと思う。 ある時、イカサキ君が家に遊びに来た。イカサキ君とは小2で同じクラスになり、「今日遊べる?」と声をかけてきたのがきっかけで仲良くなった、当時一番気の合う友人
大学の帰りに学科の友人らと一度、正門前の “TARO” で食事したことがある。もう外が暗かったから季節は冬だったろう。 店主の奥さんがカレーライスを置いてキッチンへ戻った後、佐伯が「具が、無ぇ…」と言った。佐伯は女子だが、男のような物言いをした。 みんな別の話に夢中で誰も反応しなかったから、もう一度云うかと思って見ていたが、佐伯は云わずに食べ始めた。そうして「あぁ、美味い」と言った。やっぱり誰も反応しなかった。 具が見当たらないのはケチっていたわけではなく煮込んで
大学時代に通った喫茶店がいくつかあった。多分一番よく行ったのが『カフェ・ド・ギャルソン』だった。 落ち着いた感じの良い店で、紅茶の種類が随分豊富だった。自分には違いがわからなかったから、いつも名前を言いやすい『アフリカンジョイ』を注文していた。 一方、食べ物のメニューは簡素で、トースト、サンドイッチ、カレーライスぐらいしかなかったと記憶している。 カレーは随分美味かった。他のお客が「ここのカレーはねぇ、本当に美味いのだよ。家で真似しようとして色々やってみたのだけれど
10年ぐらい前、仕事で東京へ行った時のこと。 現地駐在のヘルシング氏と午前中に駅で待ち合わせ、別の用事を済ませて事務所へ行くとちょうど昼になった。 「君、これからメシにしようじゃないか。近くにいい店があるのだよ」と言われるままについて行くと、大きい神社の向かいの定食屋に案内された。 カウンター席に並んで座り、ヘルシング氏に倣って日替わり定食をそう云うと、じきに味噌汁とサラダと何かもう一品と『あいがけカレー』が出てきた。白米の上に半々でカレーと牛丼の具が半々で乗ってい
最近、カレーについて色々思い出している。特に理由はない。 パスタ屋に勤め始めた頃、ブカティーニをカレー味のミートソースと和えたメニューがあった。昭和の喫茶店の定番メニューを麺だけ専門的にした感じである。本格的なパスタ専門店を謳いながらカレー味に頼っていることに、何だか違和感があったのを覚えている。 ある時、そのソースをドリア用のバターライスにかけて食べたらきっと美味いだろうと思って試してみた。要はキーマカレーなので果たして不味くはなかったけれど、賄いではあってもわざ
高一の時、林間学校で班ごとに晩飯を作ることになっており、何だか面倒くさいと思ったから、飯盒で米を炊くのは仕方がないけれど、料理は湯を沸かしてレトルトカレーでいいんじゃないかと班のメンバーに提案したら満場一致で採択された――実際は一人だけ不服そうだったが、多勢に無勢で押し流された――。 それでみんなで近くのスーパーへ行って、思い思いのレトルトカレーを買って来た。自分はククレカレーを買ったように思うけれど何しろ昔のことだから定かでない。ボンカレーだったかも知れない。 当日
大学2年の9月いっぱいまで学生寮に住んでいた。個人経営の寮だから色んな学校の学生がいた。大風呂があって、朝夕の食事付きだった。 もう記憶が随分あやふやだけれども、木曜の夕食はカレーが多かったように思う。 食堂にはテーブルが縦につなげて2列並べてあり、各列に1個ずつ大きいお櫃と味噌汁の鍋が置いてあった。そうして家具調テレビが置いてあった——当時(90年代初頭)でもすでに珍しいアイテムだった——。 ある時、夕食のカレーをお代わりしようとしたら、向かいに座っていた宮内が「
28の時、パスタ屋の店長を辞めて人材派遣屋の営業職に就いた。 最初に配属された営業所は大阪の北の方で、駅前のビルに入っていた。ビルの1階に飲食店がいくつかあったから配属後しばらくはそこで昼ごはんを食べていた。 1階にはカレー屋とうどん屋と洋食屋があって、カレー屋に入ったら、店を出る時はいつも上司のヒル氏が汗だくだったのを覚えている。 「俺、辛いもの食うとこうなるんだよ」と言われて、別段興味もないから「大変ですね」と言っておいた。 ※ 基本は土日祝休みだったが、応募
18歳の時、私大入試の翌日に髪を切りに行ったら頭を濡らされるたびにどうも寒気がする。家に帰る間も変にゾクゾクするから、熱を測ったら38度あった。 それで布団を敷いて寝たのだけれど、何を食っても何を飲んでも即座に腹を下す。これはどうやら尋常でないようだから医者にかかったら、インフルエンザだと云われた。 「今流行ってるのとは違う型のやつだね」とも言われた。「流行に流されない俺」と思って、ちょっと嬉しかった。 それから丸一週間寝て過ごした。食事はずっと重湯で、全然美味くない