コミュニケーションする?


人見知りだ。何を話していいのかわからない。知らない人とは会話が続かないので、大して興味のないことを突破口としようと思うのだけど、もともと興味がないのだからやはり続くわけがない。そんな調子で向こうも黙ってしまう。
レセプションパーティーというものが苦手だ。せっかく誘っていただいたのだし、こういう場所に顔を出すのも仕事かな、とか思って行くのだけど、たいがいわずかな知り合いと10分ほど話して一人ぼっちだ。あの所在なさったら。同じような人に話しかけるほど度胸はないし、やはり沈黙が待ち構えているだけだ。そんなわけで最近は何かと理由をつけて行くことはめったにない。そんな性格ではあるが、吉祥寺に古本屋・百年を構えて3年になる。定休日を除いて、ほぼ毎日いらっしゃいませと言っている。

古本屋にはいくつかの商売形態があって、店売り、ネット販売、目録販売(小冊子をつくり、お客さんに配布し注文を頂く)、催事販売(デパートやイベントスペースで販売する)、ほとんどの店がこれらを掛け持ちしながら商売している。どの街にもあるけど、この古本屋いつ行っても誰もいないけどつぶれないなぁという店は店売り以外で食べている。
百年は店売り85%とネット販売15%の売り上げ構成で成り立っている。店売り中心だ。しかも、店のコンセプトは、コミュニケーションする本屋。
コミュニケーションする、というとお客さんと話したりするのかと思われるかもしれないが、もちろん常連さんとは簡単な話はするしお客さんから話しかけられれば嫌な顔をすることはない、しつこいが人見知りというのはお店をやっていてもなかなか改善されるわけではないのでそういうことだけではない。人と人のあいだに本がある。本を介してお客さんとお店は関係する。本に対して、どれだけ敬意を払うかということに「関係」は懸かっている。敬意というと大げさかもしれないが、こちらが一度誰かの手に渡った、多くの人から、歴史から忘れられてしまった本に対して価値を設定する。息を吹き込み甦らせる。その価値/価格に対して理解すること。お店としてはその手助けを、理解していただけるように努力する。当たり前のようなことだけど、たったこれだけでいいと思う。互いを認め合うこと、ここからしかコミュニケーションははじまらないように思っている。

以前働いていた職場でのことだ。中規模の新刊書店でアルバイトとして5年勤めていた。毎日大量に送られてくる本を検品・補充・返品の作業をし、レジに立っていた。それなりに忙しかった。3年くらいからか、将来的な不安も大きな要因だったと思うけど、毎日のように辞めたいなぁとつぶやいていた。本に対する愛情は薄れ、ただの「もの」と化し、それが「本」であるかどうかなんてあまり関係なかったと思う。だからかもしれないが、お買い上げいただいて、ありがとうという気持ちがあって実際に「ありがとうございました」と言っても、ぜんぜんその気持ちが伝わっている自信がなかった。お客さんのことも見えなかったし、興味を持てなかった。当然ながら、仕事はつまらなくなり、眉間に皺をよせることが多くなった。責任の軽いという立場的なこともあったかもしれないが、いまでは確信しているがたとえ責任ある立場であったとしても、働いている実感がほしかった。そのためには「本」をしっかり売りたかった。自分なりの店をやろうと思った。
古本という選択をしてわかったことは新刊と違って、委託ではなく「買切」=買取るので、入荷した時点で店の在庫となり財産となる。委託のように返品できないので、取り扱いには気を使う。少しでも痛んだら価値が下がるということは新刊書店にいたときには経験のないこと。このことは新鮮で、本に対する意識を変えた。

2006年に百年をオープンすることができた。試行錯誤、暗中模索しながらも本に誠意を持ち仕事をしていくことができ、たくさんの人の支えもあり何とか軌道に乗った。すべての人とコミュニケーションが取れているかどうかというのはわからないけれど、確実に届いている人はいると信じているし、この小さなことを繰り返していくことしか僕にはできない。

もしこうしたコミュニケーションが至る所でとることができたなら、「暴力」的なことを避けることができると思う。戦争や暴力的な事件や中傷や嘲笑や無責任さやあらゆる一方通行的なことから逃れ「対話」することがいま求められているのではないだろうか。その先に21世紀の「平和」があるのではないだろうか。それこそが、些細なコミュニケーションの可能性だと思う。


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