銀行辞めたらマルチに勧誘された話。

「え、辞めるんですか?それだったらお世話になったんで、一回ご飯行きましょうよ」
それなりに仲良くしていた取引先の、それなりに仲良くしていた担当者のセリフである。仕事以外での付き合いは全くなかったが、確かにそれなりに仲は良かったので、退職の挨拶回りの最中にこんな言葉をかけてもらうこと自体にはなんの違和感もなく、私自身人からご馳走していただく分にはなんの抵抗もないので、快諾した。日程は私の有休消化の期間中なので、厳密にいうとまだ銀行員の肩書ではあるのだが、まあ細かいことは置いておいて、一個人としてご飯を食べに行く約束をした。12月上旬の出来事である。

約束の日、待ち合わせの駅で私は一人佇んでいた。スーツ以外でこの方とお会いするのは初めてであるため、一応若干フォーマルな服装にしてきた。お店選びは任せてあるため、どんな店かは分からないが万が一にもドレスコードのある店という可能性もなくはない。まあ、ランチであるため可能性はないとは思うが。
「無職さん!お待たせしました!」
スーツではないものの、変わらず爽やかな笑顔の彼が現れた。以降便宜上この方をMさんと表記する。マルチのMである。

「無職さん、ジンギスカンって食べれますか?」
「はい、食べられますよ」
「今日ジンギスカンのお店行こうと思って!」
食の好みが分からないにしては、チャレンジングな選択肢だし、果たして昼に食べるものなのか、という疑問もあったが連れて行ってもらう以上文句は言うまい。それに、私より歳も上なのだ、きっとこの人の中で相当においしいジンギスカン屋さんがあるのだろう。駅から10分ほど歩き、ジンギスカン屋に到着した。到着したのか?たしかにジンギスカンと書いてあるがどう見ても定食屋である。

「2名いけますかね?」
なるほど、予約は取ってないようである。
いや、まだ分からない。一見定食屋であるし、予約も取っていない様ではあるが、ここが隠れたジンギスカンの名店であるという可能性が、まだまだ全然ある。さすがに、退職を労うために連れていくお店が普通の定食屋なんてこと、あるわけがないだろう。常識的に考えて。

メニュー ジンギスカン定食(並)  1080円
     ジンギスカン定食(上)  1280円
     
     ※ごはんはお替り自由となっております。

定食屋だ。ここは、普通の、まったく普通の、一般的な定食屋である。なんだジンギスカン定食1080円って、激安店じゃないか。ごはんお替り自由?書くなそんなもん。お替りは不自由であれよ。普通の定食屋ならまだしも、ジンギスカンなんて癖の強い食べ物、間違っても激安で食べるべきではないと思うのは私だけだろうか?

まあ、そうはいっても、おごっていただく立場である以上、感謝の念を持って頂くべきである。それに、大切なのは値段や何を食べるかといった所ではない、私の退職を労っていただけるというその気持ちが嬉しいのだ。それまでの仕事の思い出などを振り返りつつ、ジンギスカン定食に舌鼓を打った。なお、ジンギスカンの味については、ジンギスカン本来の癖の強さが遺憾なく発揮されており、さっぱりしたもやし・お冷とのコントラストが強調される味わいであったとだけ、言及しておく。

「無職さんこの後時間ありますか?」
「はい、特に何もないですよ」
「じゃあカフェでも入りましょうか」
「そうですね、じゃあ出ましょうか」
我々は、ジンギスカン特有のにおいがする定食を比較的早い段階で後にすることにした。この時点ではまだ特段違和感を感じてはいなかったのだが、事件はこのあと起こった。
「お会計って分けられますか」
Mさんのセリフである。驚愕であった。確かに、ここに至るまで一度たりとも奢りますとは言われてはいなかったが、10年も私より長く生きた人間が、退職を労いたいと言ってご飯に誘ってきたシチュエーションで、かつ1000円程度の昼食代を、割り勘にしてくるとは予想の外であった。

これは、おかしい、なにかあるだろう。次に連れていかれたカフェのテラス席でオレンジジュースを啜りながらMさんがコーヒーを優雅に飲む様子をつぶさに観察していた。もちろんカフェも別会計である。

「実は今日、無職さんをお誘いしたいビジネスの話がありまして」

とうとう来てしまった。カフェを指定された時から薄々感じてはいたが、やはりその手の話か。
「ほう、一応聞きましょうか」
ビジネスの内容というのは、高品質な商品の販売員になって販売利益を得ると同時に、他人を販売員になるよう勧誘し、誘った人間が販売した分の数パーセントが永続的に収入として入ってくることになるという、よくある一般的なマルチ商法の話であった。なお、会社名は特定を避けるために一部伏字にしておくが、○ムウェイというらしい。

その後もしばらく勧誘トークは続き、「夢」「人脈」「不労所得」「金持ち父さん貧乏父さん」「ビジネス」「副業」などキラキラした単語を聞き流しつつ、今日の晩御飯は何にしようかなあ、と考えていた。
「Mさんはそれでどれくらい稼いでいるんですか?」
「あー、月によりますけどそこそこ入ってきますよ」

まったくもって嘘である。本業やりつつ副業でもそこそこ稼げているような人間は、自分が誘った年下と行くカフェ代くらいは出すし、集合場所を自分の最寄り駅に指定したりしないし、ジンギスカン定食で並を頼んだりしない。

「無職さんってエナジードリンクとか飲みます?」
お、さっきから、無職さんだったら絶対稼げると思うんですよねーの一点張りだったが手法を変えてきた。
「いやー、実はカフェインアレルギーで」
こちらをなめてもらっちゃ困る。いままでどれだけのネットワークビジネスの勧誘を断ってきたと思っているんだ。試供品のひとつも受け取ることなく断ってやろう。
「そうかー、カフェイン駄目かー、あ、入ってるわー」
その奇抜なデザインのア○ウェイ産のジュースをしまえ。少なくともここは、カフェだぞ。飲食物を出そうとするな。そうか、そのためにテラス席にしたな、こいつ。
「カフェイン入ってなければ飲めたんですけどねー、残念です」
1ミリも残念ではなかったし、私はこいつの前で100回はコーヒーを飲んだことがある気がするが、幸いなことに今までに相手が飲んだ物を覚えていられるほどの記憶力はないようだ。

「無職さん、栄養って足りていますか、実はサプリとかも商品あって」
別の商品で戦おうというのか。一度負けてもあきらめないその姿勢だけは買ってやろう。

「そうですね、少なくともすべてのビタミンがどういう食材に多く含まれていて、何と何を食べれば全部賄えるかは考えていますね」
「あ、自炊とかするんですね。それなら実は調理器具とかも結構クオリティ高いもの取り扱っていて」
まだ戦おうというのか、さすがにそろそろ自分が嫌煙されていると気づいてもよさそうなものだが。これがアム○ェイの勧誘手法なのか。

「ありがたいですが、既に調理器具は良いものを一通り揃えていますので、片手鍋、両手鍋、土鍋、中華鍋の4種類で鍋類は足りていますし、包丁も3本ありそれぞれがそれなりにお値段する物なので替えるつもりはありません」
その後もMさんと私の攻防は続いた。

「実は今度ここから見えるあのタワマンに住んでる尊敬できる人がホームパーティーやるんですけど、一緒に行きませんか?価値観変わりますよ」
「すいません高所恐怖症で15階以上の建物に登れないんですよ」

「不労所得って、すごいいいと思いませんか」
「でもその不労所得を得るために多大な労力が要るのならそれは実質労働所得ですよね」

「今度フットサルする集まりがあるんですけど」
「実は高校の部活で無理して、膝に爆弾抱えてるんですよ」

季節は12月、さすがにテラス席でおしゃべりできる時間にも限界がある。日はまだ出ているがそろそろ寒さが厳しくなってきた。潮時だな。
「よし、決めました」
「一緒にやってくれますか?」
今日一のキラキラした顔のMさんではあったが、私がアムウ○イに乗り気になったとでも思ったのだろうか。そんな兆しは一か所もなかったはずだが。

「いえ、今日の晩御飯は豚しゃぶにします。さっぱりしたものがいいかなーと思って」
落胆というよりは、ポカンとした表情である。だが、これ以上付き合えるほど私は暇ではないのだ。いや、まあ、有給消化中なので暇ではあるのだが。
「お肉屋さんが閉まっちゃうのでそろそろ帰りますね。今日はありがとうございました」

Mさんはまだ引きとめたそうな表情ではあったし、なにか音声を発していたような気もするが、まあ気にしなくてもよいだろう。どうせもう二度と会うことはないのだから。実際、この日を境にMさんとは連絡を取ることもなくなった。まあ、連絡が来たとしても無視するとは思うが。アムウェ○の方々には、今回のように人をビジネスに誘うというのであれば、少なくとも定食やカフェは奢るなどして、自分が儲かっているように装って欲しいものである。

「うまい!!」
一人で食べる豚しゃぶは、ジンギスカン定食(上)の何倍もおいしかった。





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