もう全部義務になれ

「やらなくてもいいけど絶対やった方が良いこと」がこの世には多すぎる。

適度な運動とか、思考の表出とか、こまめな掃除とか。

行動に伴うメリットはそれぞれだけど共通していえるのは、基本的にどれも長期的な継続によって得られる効果が大きいという部分だ。

裏を返せばそれは短期的にみればえてして苦痛を伴うものでしかないということでもある。対した苦痛ではないのだけど、それははっきりと「やらなくなる理由」の一因として、時を経る毎に蓄積していく。

どこかのWebライターがいうには、そういった事を継続するためには、自身を短期的報酬によってコントロールする必要があるといっていた。

それを行った後でないと報酬が提供されない、という習慣をつけることで、一回事の継続にの意味合いと自分にとっての収益を高めるというわけだ。その人はそれをエロ本勉強法と言っていた。(勉強が終わるまでエロ本を読めない、と設定していたらしい。)

またうろ覚えだが、いつの間にかQさまですっかりクイズ王みたいなポジションについていたロザンの宇治原は、勉強をゲームのように行っていた、とどこかで言っていた気がする。 

問いを1つ解く毎に敵を倒したということにして、経験値を得るというようなイメージを作っていたとか。

そういう意味では、これも短期的な報酬を強めたと言えるのかもしれない。自身の成長を仮想的ではあるが可視化する事で、勉強から脳が得る報酬を明確化したわけだ。

総じて要領の良い人というのは、自分をコントロールする方法をきちんと確立しているのだなと思う。

自身をコントロールするのは自分自身なのは当然なのだが、自身の行動を制御するのは想像の10倍難しいことを最近痛感するようになってきた。

身体をコントロールするのは脳だと長らく思い込んでいたのだけど、実際はそうではなく、身体の動きを脳がサポートしている、というのが正しい。

いくら頭でやった方が良いことが明確になっていようが、それによって身体と脳が得られる報酬がなければ、四肢は全く呼応してくれない。

魂が器に囚われている。(FFみたいな事を言った。やったことないけど)

もういっそのこと、全部義務になってしまってくれとも思う。義務なら、やらなければならないのでやるはずだ。
やらなかったら追加で徴税されるくらいで丁度いいのかも知れない。国が俺の健康を管理してくれ。

でも、もしかしたら義務になってもやらないのかもしれない、という恐怖は少しある。

改めて考えれば、そもそも自分は自分の生活において何が義務なのか良く把握できてない。

納税はしてるのだけど、それは社会のシステムがほぼ義務の遂行プロセスを自動化してくれているだけで、義務を果たしている、という気分になったことは一度もない。

だからもし自分の健康維持が義務化されたら、俺は罰金を払いながら怠惰を続けるような気がしてきた。

罰金を払うのが俺の新しい義務になるだけなのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?