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こちらはただの日記です

「許容範囲を見直す。自分には許容できないことがあるということを許容するのはある種勇気がいることだけれど私も大人になりたい。」
と、過去の自分が書いていた。

大人になるってどういうことだろう。先日引っ張り出した小学生の頃から使ってきた携帯電話たちは全てピンク色でデコレーションシールが貼られていて、実家の棚の引出しにはビーズで作ったブレスレットが仕舞われている。
キラキラのラインストーンがついたスマホケースにビーズで作ったストラップを付けている今の私と一体何が違うのだろうか。

書き途中のnoteの記事やアーカイブにしたInstagramの投稿が山ほどある。
世間と歩調が合わないことにイラついて、ながらスマホで自転車を漕ぐおじさんに轢かれようとしたあの日の自分を忘れないように私は日々の感情や経験をnoteにしたためているけれど、過去の自分が書いたなんてことない日記を読むと書いてあることについて”今”の私がまた別の考えを巡らせることができて好きだ。

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先日、Instagramで知り合った友達(実際お会いしたことはないんだけどいつかお会いしたい)から「作品づくりの為に日記を書いてほしい」という旨のDMをいただいた。
色々な人からの日記を募集しているそうで、私なんかの日記でいいんだろうか、、、とも思ったのだけど、私は彼女の作品が好きだし、その一部にしていただける可能性があるならせっかくなので書いてみることにした。というか、今書いているこの記事をすこしだけ改稿して送ることにした。
もしどこか、今目にしていただいていいる場所以外で同じような文章を目にしたらそれがきっと"それ"です。(?)
多分、人々が思い描く日記というのは日常の中で起きた出来事やそれに伴う感情が書かれたものだと思うんだけど、私にはどうも日記に書きたくなるような出来事が起きない。「”映える日常を送っていない”という理由でインスタをやらないガッキーと同じだな」などとなんともおこがましいことを考えながら日記を書く。私の脳内旅行みたいな、日記と呼んでいいのかも正直わからないようなこの文章を送り付けるのは実際ちょっと申し訳なかったりするんだけど。

今までずっと自分自身のために言葉を紡いできたのだけど、Instagramだったりこのnoteだったりで文章を公開する中で時々私の書くものを好きだと言ってくださる方がいて、改めて考えるとなんかそれってめちゃくちゃすごいことなんじゃないかと思った。
私はずっと人は忘れていく生き物だと思っていたけれど、学生時代のある授業の中で"人は生まれてから死ぬまで経験したことやそれに伴う感情を何一つ忘れることはない"ということを学んだ。
顕在意識の中では忘れてしまっていても潜在意識の中に、これ好きだな、とかいいなって感じたことが一つでも多く残るなら、人目に触れないTwitterの裏アカではなくこうして誰かの目に触れる可能性のある場所で何かを書いていてよかったなと思う。

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私は今、2ヶ月間のニート生活無料トライアル中である。今まで毎日朝から晩まで汗水垂らして働いてきたので2ヶ月間は何もしない生活をしよう!と意気込んでいたのに結局2つもバイトをした。なんやかんや言って"何もしない"ができない自分がつくづく嫌になる。生産性のない時間が耐えられないのだ。
時間しかない2ヶ月間で嫌でも自分を見つめ直すことになって、私は結局変化を求めてしまうのだとか、やりたいことがないと思っていたけど挑戦してみたいことが意外と沢山あったこととか、どんな人間になりたいかとか、今まで気づかなかった自分自身のことに気づく。
小学生の頃から好きなものは変わらないけれど、それが私の基盤であって変わっていないことが大人になっていないことにはならないのかもな、などと考えるトライアル終了1週間前だ。
ニート生活に課金はしないので、10月からまた新たな環境で働くことになるけれど今回見つけた自分を見失わずに今後も私らしく文句を言いながら人生をサバイブしていこうと思う。

残り1週間、やらなきゃいけないことが山盛りなのでとりあえず寝るぞ!!えいえいおー!!

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