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ドミニク・チェンが語る「千夜千冊とインターネットと発酵」〈後編〉

「千夜千冊」にまつわる人々をインタビューし、千夜について、本について、読書について語ってもらう「Senya PEOPLE」。インタビュー第一号は情報学研究者であり、実業家でもあるドミニク・チェンさんです。いよいよ「発酵」の秘密が明らかになります。

▽ドミニク・チェン(Dominick Chen)
1981年、東京生まれ。フランス国籍。博士(東京大学、学際情報学)。NPO法人コモンスフィア(旧クリエイティブ・コモンズ・ジャパン)理事。株式会社ディヴィデュアル共同創業者。近著は『電脳のレリギオ』(NTT出版、2015年)。『インターネットを生命化する〜プロクロニズムの思想と実践』(青土社、2013年)は千夜千冊1577夜に掲載。

( 前編 / 中編 / 後編 )

コミュニケーションは「マイクロ守破離」

――モンゴルの馬と能の鼓がドミニクさんに継承性を気づかせたというのは、とてもユニークなエピソードですね。(「中編」参照

ドミニク|継承性というのはミクロレベルでは、会話の中にもあることだと思います。別の人に伝達されたときには別の形になっているかもしれないけれど、生き続けるわけですよね。本来の意味の継承性とは異なるかもしれませんが、僕が考えているのは「形を変えながら伝わっていってる」ということです。

 日本文化では学びの場で継承する時に「守破離」というコンセプトを使うと思うんですが、特に破と離が面白いですよね。継承する型を保守的に「守る」だけでなくて、相手の中で摂取されて、自分なりの解釈が加わって、破れて、離れていく。普段の会話の中でもきっと「マイクロ守破離」のようなことが常に起こってるんだと思います。

 たとえば、なんでもいいのですが、僕が「1+1=1」と言うと、まずは「守」の段階だったら字面通りに解釈しようとして「違いますよね」という応答がでてくる。けれど、相手のモードや文脈を推察しながら、ニヤニヤしていればクイズを出されているのかとも思うし、真面目な顔なら算術的な「1+1」ではなくてトポロジカルな「1+1」のことかなとか思うかもしれません。それが「破」です。その上で、さらに独自の解釈で、たとえば「有性生殖」みたいな別の文脈に飛ぶ、というのが「離」ですよね。それって日常のささやかなコミュニケーションの中でも常に起こってるわけですよね。

 こういう会話の履歴を通して、僕たちは常にミクロな学習をインタラクティブに行っている。先に話したアフォーダンスのジェームズ・ギブソンは「学習行為は個体の死まで終わらない」という表現をしていますが、僕たちを包囲する環境、つまり世界はこういう一期一会の機会に溢れていると考えれば、ミクロな学びとマクロな学びを接続する中間レベルが構築できるのではないか、と思います。

――松岡が校長を務める「イシス編集学校」ではコースを「守・破・離」で組み立てています。インターネットの世界でも守破離のようなコミュニケーションが必要なんですね。 

ドミニク|インターネットの世界ではまだ、長期的な時間経過に価値付けることが上手くできていないんですね。リアルタイムでアクセス数やクリックレートやコンバージョンが計測できるがゆえに、短期的にユーザーの注意を奪おうという原理が働いてしまっています。これは単純な資本原理に由来している。視聴率と同じですね。松岡さんもよく言われますが、四半期決算の時間軸が支配しているからだと思います。

 この原理が究極まで行きついた先に、今回の大統領選でも影響を及ぼした「クリックベイト」や「フィルターバブル」があります。極右メディア「Breitbart」を運用していたスティーブン・バノンが大統領の首席戦略官になる。これは分かりやすすぎるほど分かりやすい構図ですよね。

クリックベイト(click bait):ユーザーの興味をひいてクリックさせるため意図的にページの内容とは関連性の乏しい、もしくは全く関係ない記事タイトルを掲げる手法。今回の選挙ではエビデンスに乏しい、もしくは全く欠けているデマニュースがFacebookやBreitbartなどで大量の視聴を得た。
フィルターバブル(filter bubble):各種メディアやSNSが、ユーザーの社会属性や嗜好性をもとに、そのユーザーが好む確率の高いと判断された情報を提示し、サービスの利用率や再帰率を高めることによって、ユーザーが自分と異なる価値観の情報に触れなくなる現象。

 変えなくてはいけないことの一つは、「情報の評価軸」だと思います。「いいね」の数やリツイート数やPVや四半期決算に基づく価値観を変えないと何も本質的には変わりません。短期的に業績を明示化しないといけないというところですべてが回っているままでは、社会全体がそれに振り回されてしまいます。

 でも一方では、モンゴルで馬をもらったり、能の謡を学んだりできるので、絶望する必要はないと思っています。物理世界にはずっと豊穣で多様な価値が潜在しているということにより多くの人々が気づき始めているかもしれない。

 最近シンポジウムやトークイベントがとても増えているのは、固定化された情報じゃなくて、その人の生身がどういう言葉をどういう口調で言うのか、ということにみんなが興味を持ち始めてるんだと感じます。そういったものを起点に現実のコミュニティが形成されていけば、インターネットもより生命的になっていくと思います。

 いずれは、モンゴルの馬や能の鼓のような長期的なものを、情報社会のアーキテクチャの構造に逆に流し込んでいくことができるのではないかと考えています。物理世界の長期的な時間軸の楽しみ方をスマホやPCの中で評価することができるようになると思います。

ぬか漬けとウェブコミュニティは似ている!?

――最近では「発酵」に興味を持たれてると伺ったんですが、それも時間軸と関係がありますか?

ドミニク|ちょうど「WIRED」で書いた「発酵食はクリエイティブ・コモンズである」という記事がウェブで出たんです。それ以来、発酵に関する仕事が増えてきています。

 きっかけは、2008年に大きなぬか床を作り始めたんです。僕の会社、ディヴィデュアルの共同創業者である遠藤拓己は僕の発酵の師匠なんですが、創業する際に遠藤家に伝わる50年物のぬか床の一部を譲り受けたんです。「このぬか床を君に渡そう」と言われて(笑)。いろんな意味でとても重かったんですが(笑)、それからぬか漬けをやっているうちに、そこで起こっている現象の構造がウェブコミュニティっぽいなって思ったんです。その琺瑯製のぬか床の蓋に「クリエイティブ・コモンズ(CC)」のシールを貼ったのが始まりです。

――創業時からすでに発酵とウェブの関係に気づかれていたんですね!最近になってやっとオライリーからも『発酵の技法』という本が出ています。

ドミニク|発酵がここまでくるとは思っていませんでしたが、発酵とウェブコミュニティの関係をたとえて言うなら、ネットのコンテンツはぬか床に入れるキュウリや人参みたいなものなんですね。その周りにわぁーっと小さい菌たちが集まってきて、そこでまさに代謝という名の情報の読み書きが起こっています。代謝した結果、システムの運営者であり管理者である僕という人間にとって「美味しいぬか漬け」ができあがるわけです。

 それがオンライン・コミュニティを運営している会社とユーザーの関係に似ていると思っていたんです。そういうことをあちこちで放言したり時おり書いたりしていたら、WIREDの編集長の若林さんに「チェンくんさぁ、発酵食の取材に行ってよ」と言われて、それ以来いろんな場所に呼ばれるようになりました。ちゃんと醸造学の学位を取りたくなってきました(笑)。

――先日も発酵関連の取材でアメリカに行かれたと伺いました。

ドミニク|サンフランシスコでMITメディアラボの伊藤穰一さんと「微生物との共同」(collaboration with microbes)というテーマで対談させていただいたんです。バイオテクノロジーのカンファレンスで、発酵食や微生物を使った新しい食品の研究発表や、日本からも味の素さんやお酒メーカーの獺祭さんもいらっしゃっていました。医療や美容で微生物を使ったソリューションを出している企業も集まっていました。その司会を1日やってきたんですが、その中で伊藤穰一さんと対談させていただきました。

 伊藤さんがおっしゃっていたのは、MITが最近掲げている「創造性のクエン酸回路」(Krebs cycle of creativity)という考え方についてです。クエン酸回路というのは好気性代謝が行われる際に、つまり呼吸をするときに糖分を解糖して、それを呼吸というサイクルの中でATP(エネルギー)に変換していく仕組みです。

 このモデルをアート、サイエンス、エンジニアリング、デザインのサイクルに適用して「創造性のクエン酸回路」をつくるということを、伊藤さんを筆頭にメディアラボの一つの新しいコンパスとして掲げたそうなんです。

 一方で僕は、「発酵食(Fermented Foods)はクリエイティブ・コモンズ(Creative Commons)である」という話をして、「CCからFFへ」ということをプレゼンテーションしました。

 発酵とクリエイティブ現象をつなげられる点はいくつかあります。たとえば、単一の因果関係では解明できない複雑な構成要素の相互作業が起こっているということ、時間経過を通して発酵したり腐敗したりというプロセスがあること、全体の特質が創発的に変化すること、などがあります。

 本やソフトウェアを書いたり、作品をつくるというクリエイティビティの世界において、今までの近代的な作者性というのは、一人の人間が一生懸命本を書いたり作品をつくったりすることで、それを社会がジャッジするというものだったと思います。しかし、今では初音ミクでもピコ太郎でもその現象を支えている作者性は多様です。「ピコ太郎というキュウリ」の周りに数億のユーザーが微生物のように寄り添い、そのうちの一部のコアユーザーが関連動画を作って、一つの大きなエコシステムをつくっているわけです。もちろん最初に頑張ったピコ太郎が偉いし、0を1にするという才能を最大限に評価した上で、その後の広がり方の全体を見て「ピコ太郎」というプラットフォームが発生している。

 そもそも「create」の語源はラテン語の「creare」です。これは育つ・成長する・自然発生するというような意味を持ちます。何かを作るというよりも何かを育てる発想だった。その原点に帰っているのだと思います。情報社会における広義での創造性を考える上で、「育つ」というのは重要な視点だと思います。いかに「自然発生をデザインする」のかということです。デザインというのはすごく人工的な所為なわけで、その矛盾をどうシステム論化するかというのが僕のライフワークのテーマなんです。

西洋の作者性と江戸のクリエイティビティ

ドミニク|ピコ太郎や初音ミクという作品は一つの場であって、その場がどれだけ他者から見て乗っかりやすいのか、作り変えやすいか。そこに、まさに「アフォーダンス理論」を僕は想起しているんです(「前編」参照)。参加や介入のアフォーダンス、ですね。ギブソン以前には、それはinvitation-character、誘発性という概念を提唱する学者もいました。それに加えて、自分よりも場を優先させる「Generativity」の発想が働くのが理想ではないでしょうか。インターネットにはそういった継承性を持ってほしいと思っています(「中編」参照)。

――その「場」という考え方に対して、日本的な場と西洋的な場との違いはあるのでしょうか?

ドミニク|そうですね、分かりやすいものでいうと、啓蒙主義というものが18世紀ヨーロッパに起こりましたが、これは印刷技術と著作権精度が後押ししました。18世紀初頭にイギリスで施行された「アン女王法」という法律で初めて「コピーライト」が明示されます。これは本を書いた人が、その本の複製に関する権利を一定期間持てる、という法制度でした。つまりここから「作者」を大切にしよう、作者の権利を重んじようということになったんです。そうしないと海賊版が出てしまって、作者が正当な対価を得られないからですよね。これは画期的なシステムです。一人の著者が、社会と対峙して、考えを社会に投企することができるわけですよね。18世紀のジャン・ジャック・ルソー(663夜)も19世紀のヴィクトール・ユゴー(962夜)も、いろんな“キャラ立ち”している人が作者性を発揮するようになりました。

 一方で時を同じくして、江戸時代の中期では「連歌会」というのがありました。そこには場の主となる「宗匠」はいますが、30人くらいでグルグルグルグルと発句から脇句と続いて挙句までひたすら歌を詠んでいくわけです。36句くらい集まると座閉じをして終わり。一句一句の詠み手はいますが、そこに西洋的な意味の作者性はありません。この形式も発酵的に見えます。

 僕は西洋の著作権制度に関わってきましたが、一周して、こういう匿名的かつ集団的なクリエイティビティがとてもカッコいいって思うようになったんですね(笑)しかも、これはとてもインターネット的だと思うんですよ。

 「誰が最初に書いたか」を問うのが西洋型のクリエイティビティだとすると、そういう個人に基づく社会的な合意形成の仕組みの限界を感じる場面が増えていると思います。いちいちオリジンの原典やエビデンスにあたりながら参照体系に基づかないと動けなくなってしまった結果、ヨーロッパもアメリカの社会も理性的な合意形成ができない状況に陥ってるんだと思います。トランプ政権における「ポスト真実(post-truth)」、つまり事実を都合良く曲解して嘘を吐き続ける情報が支持される状況、というのは極端な症例ですね。

 その逆張りというわけではないですが、連歌会のように共感の連鎖をつむいでいくというプロセスや、多様な価値観を混ぜ合わせる発酵現象に、旧来の合意形成をアップデートするヒントがあると思っています。まだうまく言語化できていないですが、これから模索していこうと思っているテーマです。

――西洋の「author」が持つ「authorship(権威)」ではなくて、ユーザーがつくる「場」によるクリエイティビティに可能性があるかもしれないんですね。江戸時代の「連(れん)」がその役割を担っていたかもしれません。

ドミニク|まさに「連」に注目しています。田中優子先生の『江戸の想像力』(721夜)で描かれているように、平賀源内もすごいんですが、そこにあった「連」の力に可能性があるんです。

 連や発酵の価値観を社会がどう受容し、新しいクリエイティビティの形として認識するのかが重要だと思っています。たとえば、対価の配分の仕方としては新しい可能性が見えてきます。ピコ太郎の例でいうと、いまはエイベックスとピコ太郎に対価が入っているわけですが、ピコ太郎を有名にしたジャスティン・ビーバーも貢献者として認めたり、関連動画やリミックス動画をたくさん作ったユーザーたちにも、その分前が配分されるべきだろうと思います。この発想は鈴木健さんの伝播投資貨幣PICSYの概念ですが、いずれブロックチェーンやハッシュツリーの技術を使って開発できると思います。

 一方で、技術の問題と社会制度の問題は個別にアタックしたほうがいいかもしれないですね。社会制度や合意形成をどうやって組み立てていくのかというところは、一筋縄ではいきません。従来の「作者」や「個人」という考え方は一朝一夕には払拭できないので、「連のクリエイティビティ」はなかなか浸透できないかもしれません。連のようなもので社会合意ができたらいいんですが、下手をすると全体主義的にもなりかねませんので、そのバランスはよくよく考えてつくっていかないといけないと思います。

「知のぬか床」を育てていくために

――「連」のようなインターネットのあり方は日本から発信できる価値観ですね。

ドミニク|ちょうど今年、学術研究で「日本的なウェルビーイングをITで支援する」というプロジェクトを始めることになったので、日本的なものを改めて勉強しようというタイミングに差し掛かっていました。それでたまたま松岡さんの『空海の夢』を読んでいたんですが、僕が生まれた年くらいに書かれたものでした。それが30年前に書かれた書物とは思えないくらいインターネット的だったんです。それから、いまやっと「連」や「仕合わせ」などの日本のコンセプトを勉強しています。

――そのタイミングで、たまたま松岡と対談をされたり、プロジェクトでご一緒するようになったんですね。

ドミニク|そうですね。本当に偶然でした。お会いしてみて、松岡さんの中には、ものすごく古い知識の層と最近起こったことの知の層が多重的でしかもバランスよくキープされているのが、不思議で仕方ありませんでした。「ああ、この人は100年ものの超美味しいぬか床」のようだと思ってしまいました(笑)。しかもフレッシュでありながら、歴史や知の蓄積や奥深さを同時に感じるような香りがします。普通は古い層だけか、フレッシュな層だけか、どちらか一方だと思います。僕も松岡さんのような「いいぬか床」になりたいと思っています(笑)。

――この千夜千冊LABも「知のぬか床としての千夜千冊」を活用し、編集部が微生物になりながら育てていきたいと思っています。

ドミニク|松岡正剛という一人のぬか床が次々と分譲されて、それが継承されて一部のコーナーになったり、別のサイトになったりというのが顕在化してくというのは、とてもいいことだと思います。千夜千冊とそれを取り巻く編集工学研究所のみなさんがどういう風にそこを広げていくのか、という全体が見えることが大事です。それは編集という方法がどのように継承されていくのかの一つのモデルになっていくと良いですね。そのモデルに触れた人が再帰的に継承できるようになると思います。

 思いつきですが、たとえば千夜千冊をブログサービスにして、一般ユーザーも千夜千冊を書けるようにできたら、なんていう風に考えても良いかもしれないですね。松岡さんの千夜千冊の一部に関連ブログが一緒に掲載されて、お互いに「読み合う」ということができると思います。そんなことができたらすごく面白いと思いますね。

――松岡はその「読み合う」状態のことを「共読(きょうどく)」と読んでいます。千夜千冊を取り巻くぬか床がそんな風に成長するのはとても面白いですね。これからも「知の発酵メディア」として頑張っていきたいと思います!本日は長時間のインタビューありがとうございました。(完)

( 前編 / 中編 / 後編 )

¶ 関連する千夜千冊
1499夜『生命の跳躍』ニック・レーン
1252夜『守破離の思想』藤原稜三
0739夜『連歌の世界』伊地知鉄男
0663夜『孤独な散歩者の夢想』ルソー
0962夜『レ・ミゼラブル』ユゴー
1623夜『見えない巨人―微生物』別府輝彦
0721夜『江戸の想像力』田中優子

∴ 編集後記 ∴
ドミニクさんは「千夜千冊LAB」のインタビュー第一号を快諾してくださり、フランクかつ真摯にこちらの問いかけに答えくださいました。ドミニクさんと松岡の出会いは共通の担当編集者の紹介だったそう。二人の対談本を只今制作中とのこと(2017年7月発売予定の『謎床』)。第一回目の対談でも「初めて会った気がしませんでした」とドミニクさん。「まるで錦織選手とジョコビッチ」のようにラリーが続いたそうです。このメディアの方向性までアドバイスいただき、貴重なインタビューとなりました。(宮崎)

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インタビュー・文:宮崎慎也
写真:長津孝輔
場所:編集工学研究所 本楼

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■カテゴリー:インタビュー

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