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1995年1月17日 阪神淡路大震災の記憶

この記事は、当時運営していたブログの2011年1月17日の記事を加筆修正し、掲載しています。

16年前の1月17日 午前5時46分


「降りてきちゃダメ!布団被ってそのまま2階にいなさい!」

母の声にびっくりして、遠くに聞こえる「ゴゴゴゴ」という地鳴りのような聞いたことがない音に怯えて、姉妹3人で布団に包まっていた。
壁にかかっていた木彫り細工が妹の上に落ちてきて、「痛い!」と泣いていたので布団の中で撫でた。

母は本棚や飾り棚の割れたガラスの上に本を敷き詰めてくれて

「この上を歩きなさい、上着持って。外に出るよ」

と私たち3姉妹の手を引いた。

冬の午前6時前、まだ外は暗くて何も見えない。母が玄関の戸を開けようとするけど歪んでしまって開かなくて、割れた窓の隙間から近所のおじちゃん達を呼んで外からこじあけてもらった。


外は、割れたアスファルト、破裂した水道管から水が噴出し、消防車のサイレンの音と遠くに赤く燃えさかった空が見えた。街はざわめき、そこかしこ悲鳴や怒号、建物が崩れ落ちる音が響き渡り、この先どうなるのか不安でしょうがなかった。


「○○さん家族がまだ中にいるらしい」

というのを聞いて、ご近所さんが集まり車のエンジンをかけてライトで家屋を照らした。ライフライン全てが絶たれていて、もちろん街灯なんてついていない。

「○○さん無事やった!怪我もないで!もう大丈夫や!」の声に

皆、涙がこぼれた。


夜が明けて7:00頃

母が、仕事場見てくる。と言い、私たち3人は家に残った。

今考えると仕事してる場合じゃないと思うけど、私たちは「いってらっしゃい」と見送った。私たち3人は仕事をしないと生きていけない、ここで仕事を絶たれたら生きていけないということを理解していた。

母がいない間、3人というのはとても心強かった。でもやっぱり寂しくて、末っ子なんかは見送ってからずっと泣いていた。

でも、見送るまで泣かなかったのは本当に偉いなと思った。


そこからの生活は本当に大変だった。

家は中で立ってたら並行感覚が無くなるほどに傾いてるし、いつ余震が来て崩れるかわからない。食料もない、水もない、何もない。

学校に避難する事も考えたけど定員がいっぱいで、諦めて帰ってきた。母に「待ってたら入れるかもしれんよ」と言ったけど、母は「もっと大変な人が入れたらそれで良い、私達にはまだ家がある、がんばろう」と言った。

母はこの窮地に立たされても気丈に振舞った。この「がんばろう」は自分に言い聞かせてたのかもなと大人になってから思った。

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家族4人で会議の末、そのままこの傾いた家にいることとし、これからの事を考え出した。
水は家裏の用水路からバケツで汲んで飲み水は沸騰して飲む。近所で分けれるものは全部分けた。タオルを何枚にも重ねて頭巾を作って、被って寝た。

学校も会社も当然休みだったけど、母が勤める会社は1週間後には再開していた。

私達が通っていた学校は渡り廊下が落ち、中庭の木も地割れですべて倒れ、校舎と校舎の継ぎ向こう側が見える位隙間が空いて廃墟みたいになってた。
ここでは授業再開は難しいとなったので他の小学校へ通うコトになった。

他の小学校に移ったら移ったで、その小学校の子達がからかいにやってくる。

「避難民来たーー!」って。

なんかこう、憤るというか悲しい空虚な気持ちというか、自分では抗えない事でからかわれる事にひどく腹が立って、毎日毎日とっくみあいの喧嘩になった。先生達にすごいいっぱい苦労をかけてしまって申し訳ない。

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まぁ大変は大変でも月日はすぎていくもので、自分達の学校のグラウンドにプレハブ校舎が建ってそこで授業再開。と、同時に校舎の復旧工事が始まった。

ボランティアの方々のご助力、学校に届けられた物資や募金で、すごく助けられた日々。

ほんとうに感謝しきれないほどです。

ありがとうございました。


家は傾いたままだったけど、みんなとにかく健康だったのが一番良かった。

余震が来た感覚にとらわれて大声で叫びながら起きるというのも少しずつ減っていった。

街も少しずつ復興していった。

いなくなった友達はいっぱいいた。

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わたしは成人して結婚した。

それくらい月日が流れてもまだ、毎年この時期に多くなる震災関連の特集に心がかき乱され辛くなるので、この日だけは一切の情報を入れずに過ごす。

一生、「震災後」が続く。

阪神淡路大震災で亡くなられた全ての方にご冥福を。


黙祷


ここまで読んでいただいてありがとうございました。

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