コント漫才とコント

もう気が遠くなるほど周回遅れだけど、「漫才じゃない論争」関連の自分の中での整理のために文章化してみました。

M-1後に降って沸いた例の論争のときに、そう言えば父親もそんなこと言ってたなーと思い出した。コントに入るなら漫才じゃなくていいじゃないか、みたいな軽口だ。
私はその時全然違うのに何言ってんだろ、と思ってスルーした記憶がある。

でもよく考えたら自分の中でも何が「全然ちがう」の根拠なのかわかんない。でも感覚的に全く違うものとして「コント漫才のコントパート」と「コント」を見分けてる。と気づいたのでつらつら考えた。

コント漫才は地の文として、芸人の語りがある。コントインするのは、その地の文の上に乗っかる。設定をつけることで、芸人はあくまで芸人本人として、語りが変化するというイメージ。
だからコントイン後はつけられた設定の「てい」で進むので、マヂラブでいうところのレストランや心臓やおわりーと並べられるフォークとナイフは存在しない、マヂラブの2人の間においても見えていないもの。観客はその「設定」を共有することで、起きていることを理解する。
ツッコミは観客と同じ地点にいることが多く観客の代弁者やガイド役になりがち。
ツッコミが一緒に設定に乗りボケと会話した場合でも、ボケが設定から外れている行動を取るため突っ込む。突っ込む時点では「てい」から降りているため地の文としての語り。観客と同じ地点での発言。

コントには基本的に地の文はないものが多く、基本的にスタートの時点で「今ここ」ではないものが多い。また基本的に芸人も、芸人本人としては出てこない。東京03で言えば、メンバーが名前そのままだったとしても、少なくとも「今ここ」でコントをしている豊本としては存在していない場合がほとんどなはず。

コントの世界はコントの登場人物たちにとっては現実なので、観客に見えていないものであっても、彼らには見えて存在している。観客は芸人の演技から風景を補完する。
コント内のツッコミは観客の倫理観と近いことが多いが、あくまでコント内の状況について疑問を呈したり、指摘したりを自問自答含め声に出している。観客と同じ地点にはいない。


ざざっと書き出して見たらこんな感じの認識の違いが私の中であるっぽい。
単に私の認識の話なので、実際のところ作り手の中ではどういう構造の違いがある認識なんだろう。養成所とかでこの辺りの話はあるのか聞いてみたい。

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