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雷にも似た貴方のきらめき

晴天の霹靂(へきれき)
(青く晴れた空に突然おこる雷の意から)
思いがけずおこる突発的事変。晴天の霹靂。

日本国語大辞典

田中樹というひと。


 わたしが、もし将来的に日本国語大辞典の編集者になる未来があるとするならば、確実にこの一節を残すだろう。不思議と、迷いはない。ひとつ断っておくと、わたしは言葉が好きだ。すべての言葉を、「正しく」使いたい。だからこそ、田中樹は青天の霹靂であると、言いたい。決して気が狂ったわけではない。
 かみなりみたいに一瞬で、脳天まで貫かれた。一目見て、こんなにもかっこいい人がいるものだろうかと心が震えた。未だに、その感動はわたしの心臓にこびりついている。

2021.07.21

 あの日、FNS歌謡祭はCreepy Nutsを目当てに見ていた。大好きな曲を地上波の、それも大きなテレビ番組で観ることができる喜び。シックストーンズの田中樹(いつき)さんのことなんて、なにひとつ知らなかった。見ての通り、ジャニーズにはなにひとつ詳しくない。Rの法則は視聴していたが、あのときテレビに映っていたジュリと、いま目の前にいる田中さんが同一人物だと気が付くのは、もっと、ずっと先のこと。ただ、確実に。迷いなく言えることはただひとつ。あのスタジオに大勢存在した演者のうちのひとりが、わたしにとってのかけがえのない「ひとり」になったのは、このステージであった。塾帰りに、録画していた番組をぶっ飛ばしてCreepy Nutsの出番で止める。うきうきで再生ボタンを押した。

 息を呑む。ただひたすらに、かっこいいひとだと思った。ざらざらした声質なのに、ひたすら聴きやすい。ジャニーズ事務所のひとらしからぬシンプルな衣装を身に纏ったそのひとに、釘付けだった。外の界隈のひととのコラボすることがうれしいとか、そもそも大好きな曲だとか。そんな前提はどこかに置いてきたとて、絶対に断言できる。田中樹というひとは、とびきりかっこいい。わたしの中のジャニーズといえば、歌番組やバラエティー番組、ときにはドラマや映画の領域でも活躍しているきらきらかっこいいアイドル集団という認識だった。田中樹、そのひともまた同様に。
 けれど、彼の放つ輝きは、そのどれとも違うギラギラとした眩さがあった。Creepy Nutsとのコラボステージを「辿り着いた夢のステージ」と、簡潔に言い表した。ジャニーズ事務所でデビューしているひとなんて、そもそもの前提として日本でいちばんのカッコいいひとじゃないか。そんなひとの言う夢のステージが、この場所であるということ。Creepy Nutsのファンとしてものすごく誇らしく思えた自分がいた。それはどうしてか? 答えは、シンプルだ。田中樹というアイドルが向けるリスペクトに、それだけの価値を見出していたからだった。

 こうして、わたしは田中樹と出会う。あまりの衝撃だった。これから先、あれほどの衝撃の追体験はあるだろうか。答えはまだ分からないけれど、もしかすると、同等もあれ以上も、今後無いかもしれない。それだけ、素晴らしいものを見た。これを青天の霹靂と言わずして、何と呼ぶのか。田中樹というアイドルは、わたしにとって幸せな落雷だ。

唯一無二の閃光。

 なんやかんやで転がり落ちるように田中樹、そしてSixTONESに落ちた。それはもう一瞬にして。つかず離れずの距離で曲やラジオ、YouTubeをときどき楽しみながら過ごす幾年。住んでいる場所の都合、自分の心身、アイドルオタクどころじゃない精神。あれやこれやを乗り越えて、田中樹を一目見る機会が訪れたのはVVSだった。どこへだって会いに行けるくらいの熱量と体力と気持ち。当選メールが届いてから、初参戦のその日まで。長いようで、あまりにも短かった。

 特筆すべきことはあまりにも多い。が、本稿は田中樹生誕を祝してのものである。そのため、各公演のハイライトを書き連ねていくことにする。

京セラドーム大阪-Day2

 初めて通された席はいわゆる天井席という場所だった。入場ゲートの統計学とやらは全くあてにならないことを学んだその日、モニターの多さに安堵した。開演間際、ドームから灯りが消えて、六色のペンライトが代わりに会場を灯す。ひとりひとりのかけがえのない好きと運命が込められた六色。どんな星空よりも、きれいだった。

 一曲目のアンセム。なにを言うにもまずこの曲を言葉にしなければならない。半ば義務にも思えるほどに鮮烈な“Ready?”をかました田中樹。55,000人が呼応するように叫んだ。あまりにも痛快なかっこよさが、彼には宿る。それを証明させるためには、一小節も必要ない。たった一言、静かに、されど彼の胸の内に宿る情熱。小手先の技術なんてものはない。すべてが一級品だった。あまりのかっこよさに、魂を持っていかれそうになった。モニター越しに見る彼ですら、それだけの気迫。そのひとことが、田中樹に、いっそう深く嵌る瞬間だった。
 遠くの席に座っていたからこそ分かったこともある。彼は、青色のペンライトを「見る」のが、とても上手いように感じた。上の方も見えているよ、ありがとう。そうして手を振るその仕草。どれもが本当に思えて仕方がなかった。真偽は彼のみぞ知るところではあるが、わたしには本当に見えているような気がしてならない。別に目が合ったわけではない。いくら視野が広いと言えど、それでも遠く離れた場所から彼を見つめていたからこそ、青を捉えて一生懸命に手を振る仕草に、心打たれたのだから。

京セラドーム大阪-Day3

 昨日とは全く違う場所。つまりは全く異なった自担を目に焼き付けることができる席。アリトロでファンサを仕掛ける彼は、それまでわたしが抱いていたかっこよさからは想像もつかないほどに無垢なかがやきを魅せていた。ライブの田中樹といえば、ファンサうちわになんでもかんでも首を横に振る、という印象が強かった。正直に言って、ものすごくそれが恐ろしかった。今更キラキラリア恋アイドル対応を彼に望んでいるわけではなかったが、夜なべして作ったファンサうちわをイヤだと言われる気持ちはいかほどか。想像することもままならないが故の、仄暗い気持ち。
 そんな先入観が少しだけあったけれど、そんなものはホンモノを目にしてしまえば一瞬で打ち砕かれる。無数のうちわを目の前にして、燥ぐように首を横に振る。あれもこれもイヤ、嫌、やだ。手を振ることはあれど基本的にはファンサ却下のオンパレード。しかしながらそのムーブ自体がファンサだったように思う。言葉にしてしまえばいっそ残酷にも見えよう彼のその行動ひとつひとつが、目の前のファンを対等な人間として――それも殊更仲がいい、心を開いた相手のように――扱っているからこその戯れ。こんなにも幸せなことがあって良いのだろうか。今思い出しても、新鮮に高揚する。彼の魅力はクールなパフォーマンスだけではない。あまりにも苦しい競争社会を生き延びてきたからこその、仲間に対して心の内側の開示。それが尊い。ファンに対しても同等に、心の内側に入れてくれているような気がしてならないピュアな笑顔。あれを見せてくれるなら、問いかけた先の答えがイエスかノーかなんて、ほんとうにどうだって良い。

バンテリンドームナゴヤ-Day1

 MCが長くて楽しいでおなじみのSixTONESのライブ。まあよく喋ること。そういうわけで長尺になろうと退屈することはないし、ラジオが大好きな身としてはスペシャルな六人回の延長のような気がして嬉しい。その日のトークも佳境を迎えたとき、いつもなら三人ずつに分かれて着替えに行くところを、六人で行きたいと言い始めた。発端は誰だったか。悪ふざけのノリと温度感。会場はこの時まさか本当に六人で行くことになるとはまだ思っていなかった。ぐるっと囲うようにして彼らを見つめる36,000人、全員が微笑ましくそのノリを聞く。そうして終わると見せかけて、結構うだうだと続いたMCの最後、六人で行く行かないのくだりの最後。「お前らと離れたくねえんだよ!」と、声高らかに言う樹ちゃんと、誰一人として茶化さない空間。すべてが平和だった。ずるいよ、と。わたしはただそれだけ言った気がする。五人のことが大好きな田中樹。人情系ギャルだとか、そういうのを超えて。ただただ、そんなふうに佇む彼が愛おしい。心の扉を開いて、片時だって離れたくないようなひとが近くにいる。それを恥ずかしげもなく示してくれる彼が、ほんとうに好きだ。
 実に愉快なMCは、幕を閉じる。結果、DRAMAのインストゥルメンタルが鳴り響くバンテリンドーム。……行きよった。すごい。あえて三人ずつで行く手法を取っているであろう彼らは、六人でステージを後にした。この幸せが、絆が、永遠に続きますように。祈りを込める両手に、よりいっそう力が篭る時間だった。

東京ドーム-Day3

 わたし個人としても、VVSというツアーを通しても最終日である東京ドーム三日目。回数を重ねていくごとに高まっていくボルテージも最高潮。まだ終わりたくない、と思っていたのは演者も観客も同じなのではないか。けれどもそうはいかないこともある。だからこそ、全部をここで出し切る彼ら。ほんっとうにかっこよかった。迂闊に触れれば、やけどしてしまうのではないかと錯覚するほどの熱量、全身全霊でパフォーマンスをやりきる彼らは、輝いていた。

 そのなかでも、いっとう輝くわたしの一番星。無数のペンライト、レーザー、花火、炎。そのどれにも負けない輝きを放つ田中樹。すさまじく美しかった。その中でも、JAPONICA STYLEの彼はこの世のものとは思えないほどに儚げだった。彼に向ってまっすぐに伸びる白色のスポットライト、最後に大盤振る舞いされる桜の花びらが、彼をそうさせた? ――半分は正解だろう。けれども、つくられた儚さだけではないように思えて仕方がない。ひとの心を強く動かす作品は、それがどのような媒体だったとしてもそのひとの個性が滲む。アイドルとて、そうだ。彼が創りあげたアイドル像から透けて見える、田中樹というひと。それが、わたしの角膜を焼いた。多量の桜吹雪、眩いばかりの舞台。その桜が造花であることも忘れて、ただ魅入る。見れば見るほどに華奢な身体、物憂いな表情。ファンを愛している彼が、その中のたったひとりにだって視線を預けない虚構。その寂しさが、結果として儚さとして我々の心を打ったのではなかろうか。あそこが東京ドームの中で、ほんとうは桜の時期が終わっていて良かった。作り込まれた世界でなければ、彼はあのまま春に連れ去られてしまっていたかもしれない。

 わたし個人の趣味嗜好として、とりわけ書き留めておきたいのはHysteriaだ。ぐるぐる回るステージで、しっとりと歌い上げる様が美しい。メインステージがよく見える座席だったため、あえてモニターを見ずに本人を肉眼で見つめる。生憎表情まではよく分からなかったけれど、その立ち振る舞いがまるで映画のワンシーンを切り取ったかのように洒落ていた。ああ、このひとが居る場所が世界の中心なんだ。そう思わざるを得ない。だってわたしが地球なら、田中樹を地軸にして廻る。どう考えたって、この果てしない宇宙の中でいちばんの佇まいだ。
 曲も終盤に差し掛かる。ここで普段なら気が付かないことに気づく。樹の視線の先に、大我さんがいることに。見つめあっている。それだけでも心が踊る。映画のワンシーンというよりは、一枚の絵を見ている様な感覚。流れている音、歓声、動く人々。それら全てが止まっているのではないかと思う。動揺? いいや、至って平常心だ。ふたりの世界がそこに存在している。わたしは、それをただ切り取っていく。モネの連作を見るように。一挙手一投足、丁寧に見つめる。
 しばらく、見つめ合うふたり。完全に不意打ちだった。ボルテージが上がりきった彼らの積極性を、侮っていた。暫しの間、されど永遠とも思えよう見つめ合いの果て、大我さんが樹の頬をそっと撫でる。この場この瞬間以上の極楽浄土などこの世には存在しないことを、不意に悟った。息を呑む。これまでのどの公演でも用意されていなかったふたりの演出。こんなときでも飄々としている大我さんと、その指先を受けて視線を外した樹の対比。不意打ちに僅かな動揺を見せて、はにかむばかりの表情もまた、田中樹の魅力のひとつだった。

 熱狂の二時間が、ダブルアンコールの音色で幕を閉じる。結成日にリリースされるその曲を、樹は慈しみを込めて「奇跡」と呼ぶ。それだけ彼らにとっても大切な曲を、聴くことができる僥倖を噛み締める。散々言い尽くしてきた通り、田中樹という男はべらぼうにラップが上手い。ワンフレーズだけで会場が揺れる。そんな男が、祈りを込めて「隣にいてほしい」と、歌う。大切な仲間を指差しながら。その歌声がとても聴き心地の良い美しいものだからということと、察するに容易い彼の仲間への気持ちが、我々の心を感動の渦へと誘ったあの瞬間は、ほんとうに特別な時間だった。

万華鏡の麗しさ。

 これまで書き連ねた言葉は田中樹というひとの魅力を断片的に掬いあげたものに過ぎない。どれだけ言葉を重ねようとも、彼の真の魅力は、自分自身で声を聴いて、言葉を受けて、その表情や指先の精巧さに胸を打たれることでかならず、ひとりひとりに届くものだ。一端のファンがどれだけ好きなところを熱弁したところで、百聞は一見にしかず。彼が巻き起こす感情の変化は、説明などほんとうは不要なのだ。該当担ではないひとが、樹をかっこいいと言うのも、樹に関連したコンビを好きだと言うのも、とても嬉しい。わたしが大好きな田中樹というひとの魅力は、誰しもの心を動かすことの証左であるからだ。

 彼はときどき物憂いな表情を見せる。どれだけ好きで追いかけていても、分からない瞬間がある。そういう苦しみや、悲しみ。好きだと感じた表情が、緻密に計算された田中樹だったということの明示。ああ、やっぱりこの人は究極のアイドルだなと思う。嘘を売るのが上手いから、そう思うのではない。なにかを押し殺して、辛さで感覚が麻痺してしてしまっていることすら赤裸々に語るところ。ファンの人がどういう自分を見て、喜ぶか知った上でそう振る舞ってくれるところ。とても優しくて、あまりにも魅力に溢れている。決して分かち合うことのない苦しみすらも見せてくれるところが、好きだ。わたしを、我々ひとりひとりを、大切にすることを生業として選んだ彼のその生き様に、わたしは魅了され続けているのだ。

 どうかお幸せに。20代最後も、最高の仲間と駆け抜けてください。

2024.06.15


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