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社不だから死にたい

この世の中を生き抜くには無理が多すぎる。自分は社会不適合者なのだ、なんてひしひしと思い知らされる毎日。無理だろ。

嫌なこと、面倒なことを後回し後回しにしてしまう癖をどうにかしたい。このまま続けてたら何にもならないしまともに働けないことは自分が1番知っている。後回しにした結果そのまま忘れしまうこともテンプレとなりつつある。本当に良くない。人に迷惑しか掛けていないし本当に殺してくれ。

こんな自分が駄目で、嫌で毎日涙ちょちょ切れカーニバルを起こしている。どうにかしたい、どうにかしなきゃ、どうにも出来ない、の悪循環。接近-回避型葛藤。泣くしかないだろ。こんなわたしが社会に出て生きていくなんて無理難題の限度が過ぎる。「生きていれば良いことがある」なんてほざくのは何処の誰だ、死んでくれ。生きているだけで地獄なんだよ

「フツー」の人が「フツー」に出来ることが何故わたしには出来ないのだろうか。小学校高学年の頃から抱えてきた疑問である。そもそも普通ってなんだよ。親や世間の言う「普通」がわたしには該当しない。社会不適合の始まり。「時間を守る」「遅刻をしない」「整理整頓をする」「やるべきことをやる」等々、親から散々浴びせられたコレらがどうしても出来なかったのだ。「なんで当たり前のことが出来ないの?」そんなのわたしが聞きたい。多分この言葉の呪縛から一生逃れられないのだろうな。

幼少期の心的外傷が無意識の内に働いているのかもしれない、というのは最近よく思うことで、考えてみなくてもわかる、両親との関係がもっと良いものだったらわたしはこうなっていなかったかもしれない。全責任を他人に押し付けるのも違う気はするけど。当時影響を受けていたものは形を変えて今でもわたしの根源にあるのだろうし。過去の選択がすべて今に繋がっていると考えたら後悔はしていない。今の自分だから出会えたものって沢山有りそうだし。結構気に入っているんです、今まで出会ってきたものもそれらを通して形作られた自分も。勿論先程挙げてきた根本的に備わっている自分の社不な部分だとか、メンタルが弱いとか、人として終わっている部分は永劫憎悪し続けますけど。でも今自分に何が出来て何をしなきゃいけないのか、きちんと見極めて生きていきたい、などと。生きよう!と思った瞬間には死ぬか、となるんですけどね。支離滅裂が過ぎるな、語彙力なんて微塵もないけど、生きてて良かった〜!って毎日思いたい。いつか、死にて〜とすぐ思ってしまう癖が治りますように、社不なりに醜くても強く生きようね、終話

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