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浪花節シェイクスピア 『富美男と夕莉子』

東京公演、大阪公演と複数回観劇。
シェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」をもとにした富美男と夕莉子の恋愛悲劇の作品。浪花節ということですべて関西弁(大阪弁?て言うのかな)、両家の対立は任侠の世界として描かれている話です。
悲劇的な題材を扱っている分喜劇のところもありました。その塩梅がとても観やすく、回を重ねるほど笑いのシーンは笑え、心に残るシーンは深く残っていく、複数回見ることのおもしろさや楽しさを実感したように思います。
ロミオとジュリエットといえば本を読んだり映画や舞台を観たことがなくても誰でもあらすじや結末を知っているだろう、いわゆる古典的戯曲。そして映画をはじめ、舞台、バレエ、宝塚、学生の文化祭などいろんなところで演じられている作品。私自身はロミジュリだけでなく、シェイクスピア自体を通ってきたことがありません。初めてみたロミジュリは[泣くロミオと怒れるジュリエット]とちょっと派生した作品。あ、2月に見た映画ウエストサイドストーリーもロミジュリからヒントを得た作品だったな(実際、富美男と夕莉子を初めて観劇したときはウエストサイドストーリことばかり思い浮かべてた)。だから、ロミオとジュリエットを読んだことや見たことがあるか?と聞かれたら「ない」側の人間です。“敵対する家同士の男女が恋に落ちて、いろんなすれ違いと勘違いで2人とも自死してしまう。唯一知っているのはバルコニーのシーン(ロミオ、あなたはどうしてロミオなの?)”くらいの知識で、1回目を観ました。

劇場に入ると任侠の世界だからかな。目に入るのは猪鹿蝶、芒に月、松に鶴、菊に盃の花札。

猪鹿蝶→「萩に猪」「紅葉に鹿」「牡丹に蝶」猪は孫繁栄の象徴、鹿は幸運や俸禄の象徴、蝶は円満な結婚生活の象徴でとても縁起がいい役
芒に月→十五夜の月見。旧暦の8月で今の暦だと9月中旬から10月中旬。劇中で月の光の描写や月の満ち欠けの台詞が出てくる。実際バルコニーシーンも月光に照らされた夕莉子を富美男が見つけている
松に鶴→松鶴長春で夫婦の長春、不老を祝う図案。鶴は夫婦仲が大変良く一生を連れ添うことから、夫婦鶴と言われていて仲良きことの象徴とされている。松は常緑樹と言われるように一年中葉が青く、長く生き続けることから長寿のシンボルとされている
菊に盃→旧暦9月の札。今の暦だと10月中旬頃。この時期は菊がきれいに咲く時期で菊は邪気を払い長寿の効能があると信じられ、中国では重陽の節句(旧暦9月9日)では菊を浮かべたお酒を飲む風習がある。菊の花を酒に浸して飲む=不老不死や厄を払うの意味

縁起がいいもので揃えただけであまり他意はないのかもしれません。でも観劇した後に考えると、円満な結婚生活、夫婦の長春、そして不老不死。富美男と夕莉子のラストと重なるような、私が願ったことのような気がしています。
花札は衣装にも使われていて、夕莉子パパの帯紐に五光(花札で一番強い役)と猪鹿蝶がついていたのが印象的でした。夕莉子ママも帯紐。夕莉子も帯紐。富美男は襟、富美男パパは袖口、富美男ママはヘアアクセ。
オープニングの口上で「歌舞伎!?」と戸惑い、出てくる登場人物の名前を書いたパネルは勘亭流で「あれは江戸文化じゃない?!」とさらに混乱したけど、千客万来を願ってというもともとの意味を考えるとこの作品自体をたくさんの人に観てほしいという願いも込められてるのかなと思っています。
それから衣装も照明も小道具もなんもかんも赤で統一されていたこと。赤って恋のイメージもあるし、情熱のイメージもある。お祝いごとも赤だし、血も花火(火)も赤。和傘が広げて置かれていく夕莉子の祭壇はとてもきれいだったし、そこから和傘を宙に浮かして(この表現が合ってるかわからないけど)夕莉子が短剣を刺して飛び散る血にしたのもきれいでした。

話は戻して1回目の観劇。亡くなった2人が交わしていた交換日記から2人が死ななければならなかった理由を探っていくのだけど、その時系列はバラバラ。話自体は複雑ではないのでバラバラの時系列でもわかるし、楽しめました。でも何気なく観ていたセリフや出てきた物があとで大きな意味を持つことになり、ハッと気付かされることも多くありました。そして頭の中で時系列にしようとしたときに気づくことというか、こういう意味だった?と思うことが多くありました。
そのうえで2回目を観ると富美男の「ゆりこ」と「ゆりっぺ」の使い分けで時系列がつかめ、死ぬまで夕莉子を笑かしていた富美男の「死ぬまで笑かしたる」という結婚式のセリフも死んだ富美男を見て笑う夕莉子の姿も「続かんかったな、交換日記」という富美男のセリフもよりせつなく悲しく感じました。というか、結婚式のシーンが幸せで喜びにあふれていればいるほど、死んでいく2人への気持ちや残された人たちが思う気持ちが深く刺さり、せつなくかなしく、そしてさみしく感じました。
それから2回目を観るにあたり、もうちょっとロミオとジュリエットを知っておきたいという気持ちも出てきました。書籍を読むつもりでいたのですが、結局時間がなくてネットの力を借りることに。それで割と原作に忠実というか、このセリフはこのオマージュなんだ!と気がつくのも楽しかったです。富美男と夕莉子に散りばめられたロミジュリのかけら。それを見つけたときの気持ちよさはロミジュリを知ら「ない」側だからこそ得られたものだと思います。

ロミオとジュリエットは有名な恋愛悲劇です。死が2人を別つまでを描いた恋愛悲劇です。富美男と夕莉子もそういう側面を持っています。でも一方で富美男と夕莉子のそれからというか、死が2人を別った以降のことというか、関わった家族や友人たちの悲嘆から受容までの過程、富美男と夕莉子の周りの人たちの喪の作業だと思っています。
2人は出会って、結婚して、幸せの絶頂にいながら最後に死んでしまいます。愛する人が死んだということ、特に夕莉子にとってはその直前まで、2人で幸せになれるって思っていて、目の前で彼が死んでると知る衝撃は計り知れないものだと思います。2人が死んだことは周りにとって衝撃で、喪失することへの心の危機です。

父母ズや弁太郎たちは


①事のなりゆきを受け入れることができない(無感覚・感覚の危機の段階)
②お宅の息子が、娘が、そそのかした!、スズカケのおっさんが悪い!と故人や第三者に対して怒りが出てくる、どこかで何かが違っていたら2人は死ななかったのかもしれないという自責の念(怒りと否認の段階)
③なぜ2人が死ななければならなかったのか?という理由を探し、事実に直面する(断念・絶望の段階)
④穏やかで肯定的な感情が生まれ、両家が和解する、街が平和になり希望になる(離脱・債権の段階)


という4つの悲嘆のプロセスを踏んでいったと思います。
2人の周りにあるバラバラになった交換日記を紐解くことによって、父母ズや弁太郎たちはようやく2人の死を受け入れられたと思うんですよね。ロミジュリのウィキペディアに“事の真相を知って悲嘆に暮れる両家は、ついに和解する”とあるのですが、富美男と夕莉子はその一文で表現される物語、だけども悲劇を悲劇にしない希望ある物語だと思います。

だからこそ両家が和解するシーンのスズカケのおっさんの表情に毎回泣いてしまいました。2人の結婚と想いを素直に表現できず純金の銅像を建てる云々の話にする両家のパパのいじらしさ、そんなパパのやりとりにスズカケのおっさんがずっと願っていたことが叶うとわかったときの表情、2人の死という現実は悲しいけれど、なかったことにはせずになにわ坂の希望が見えた瞬間を喜ぶおっさんの気持ちに心が救われたような気がしました。もちろん母親の子供の気持ちを理解してあげられなかったこと、取り返しのつかないことになってしまったことへの後悔も死なせてしまったことへの悲しみも序盤から伝わりました。初めて見た時に最初に思ったのは“そりゃ自分が命をかけて産んだ子だもんな。なんとかしたかったよな”という母親の心情でした。そして子供たちが敵を超えて愛しあったこと、そんな2人の気持ちをいち早く認めている母親の心情に、母親はやっぱり子供の味方なんだなぁと思わずにはいられませんでした。
そして弁太郎と春やん。弁太郎は特に「それでも何かできんかったか、どこかで何かが違っていれば2人は死なずにすんだんじゃないか」とめちゃくちゃ後悔をしています。それはその通りで、きっと誰もが通る思いです。2人のなりそめから5日間の経過を見ていた弁太郎(と春やん)なので、この先もずっとその気持ちを抱えていくのかな。弁太郎と春やんはもしかしたら悲観のプロセスの②と③を行ったり来たりするのかもしれないです。

そんな弁太郎の気持ちを救うように富美男を夕莉子が出会ったときの交換日記を通じた回顧。私はここからのシーンはお空に旅立った2人が出会ったシーンと思っています。2人が死んでから再会したシーン。あの世で2人が会えたシーンです。
ロミジュリでは仮面舞踏会で2人が出会ったことから夏祭りの盆踊りという発想になったのかもしれません。夏祭りはお面被ったりするし、狐のお面も小道具としてあるし。でも盆踊りには“年に一度この世に戻ってくる精霊を迎え、また送るための風習に発したもの”という意味もあります。2人の気持ちを理解し、2人をあの世に送り出す意味で盆踊りを踊ったのなら、と思うのです。

「なぁ、あんた。名前、なんていうん?」
「富美男。紋田木富美男。」
「うちは九羽平夕莉子。」
「夕莉子。ええ名前やな。」
「うちな、一目惚れって嘘やと思おとったんよ。誰かをひと目見ただけで好きになるやなんて、ありえへん思うてた。」
「言うたやろ。ありえんことがたまにあり得るから、生きるっちゅうんはおもろいんや。」
「そんなん、言うたっけ?」
「言うた、言うた。…あれ?言わんかったっけ?」
「まぁ、言うたことにしといたるわ。」
「…あの、なんて言うたらいいんか分からんけど…」
「なぁんも言わんでええよ。もう分かっとるから。」
「そうか、もう分かっとるか。」
「なぁ、富美男。」
「なんや。」
「うちら、出会おうてしもうたな」
「あぁ!出会おうてしもた!」

公演観たあとに必死でメモに残したこの部分。特に後半部分。出会いを繰り返した、あの世で再会したときの2人のような気がします。そう思うと、あの世で2人は会えたんやなー、よかったなーと泣き笑いの表情で清々しい気持ちになります。
そのあとの父母ズや弁太郎やスズカケのおっさんの問いかけからすると、もしかしたらこの世(2人が死んだ世界)と混同しているところなのかもしれません。

ーあんたらはそれでも出会うんか!
「この出会いをなかったことにせんでくれ!」
ー出会うたことに後悔はないな!
「当然や!出会うたことが嬉しいんや!」
ー富美男と夕莉子、おまえら2人はそないな恋をしたんやなぁ!

出会いの回顧がこの世に残された人の気持ちを浄化させると同時に、あの世での2人の再会としてこんなにも希望あふれるものになるんだなとうれしくなりました。

そう!恋や!俺こと紋田木富美男。一世一代の恋をした。たった五日の恋路と言えど決して侮ることなかれ!
うちこと九羽平夕莉子。若気の至りに身を任せ、一生分の恋をした!
沙翁(さおう)書きたる恋愛悲劇。浪花節シェイクスピアなる富美男と夕莉子。二人の恋路や、あゝ二人の恋路や!

追記(6/13):いろいろ調べていたら、シェイクスピアのことを“沙翁(さおう・しゃおう)”と言うそうです。「そう!かくたる恋愛悲劇」がちゃんと聞きとれなかったなぁと思いながら書いたのですが、沙翁のことを知ってそこから考えると「沙翁書きたる恋愛悲劇」では?と修正しました。間違ってたらまた修正します。


悲劇は悲劇です。人が死ぬ、恋する二人がこの世にいないのは、そして生きられた二人がいろんなボタンのかけ違いで死ななければならなかったのはやっぱり悲しいです。でもあの世では二人の恋が始まっている、ハッピーエンドのような結末に感じます。

その上で最後の最後の富美男と夕莉子。

「なぁ、富美男?」
「なんや、夕莉子」
「スズカケのおっさんが言うとった。死が二人を別つまでうちらは夫婦やて。勝手に決めつけんでほしいわ。」
「そやなぁ。死ぬくらいで俺らは引き裂かれへん。死んだ後もずっと一緒に居りたいんや」
「うちな、あんたのこと、めーっちゃ好きやで」
「お前のことがめーーっちゃ好きや!」
「うちら、ほんまアホやなぁ」
「世知辛い世の中や。アホなくらいがちょうどええ」

もし二人が死んだ後も出会えて笑っているなら、それでいいな。「富美男、うちらの明日はどんなんやったんかなぁ」と死んでいった夕莉子が「うちら、ほんまにアホやなー」と笑ってるのなら悲しさとかせつなさとか苦しさとか全部放り出して、そっか、それならよかったと思える作品でした。

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