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2022/11/14(月) - ボアズ

バンドの話です。SuiseiNoboAz見てきました。堺ファンダンゴ。
ファンダンゴが十三から堺に移って初めて見に行った、とかだったり、ボアズ自体も私はほぼ3年ぶりに生でみれたりとなんか色々久しぶりすぎてエモがやばかった。
エモ、感情はやばい。昨日だって泣きながらライブを見ていたしまだ今日もライブDVDやMVを泣きながら見ている。

私の情緒不安定ぶりはさておいて、ボアズ、そして石原正晴。
私はまあまあライブハウス行くにも関わらずたまに言葉が耳に入ってこなくてバンド音楽だけで雰囲気楽しんでいることもあるくらいなのだけれど、本当に言葉ひとつひとつが素直に入ってきてやばいライブだった。生でみれていなかったアルバム2作分の言葉のストレートさ、ありふれていながらも誰もが苦しむ気持ちに対しての、あの真摯な優しさとかがもう本当に、、、心に一つ一つの言葉が刺さってくる感じですごかった。
ボアズは本当にヒーロー。

個人的にここ最近は、なんだか「推し」という概念に思うところがあって、たとえばアイドルだったら、KPOPで親もよく露出していたアイドルが、親御さんが亡くなる直前に撮れていた映像を追悼としてか世に流していたり、(それ自体は本人発信だったし、たとえば自分の親族が亡くなった時は、生前に何かしら自分なりにやりきったこともあって当人としては純粋な気持ちで生前よくしていただいたみなさんに思い出を共有したい、とかいうこともあるのだろうけど)、個人的に露出という部分にしっくりきていなかった。
お笑いでも負の感情や恥を骨の髄まで曝け出すところとか。
反対に、それを求める側の人間としての責務というか、加虐性というか。こちらが求めており、且つYouTubeだったりの収益の仕組みがある限り、出す側が結果を求めるとそういう露出の方法になりがちなところっていうのはあると思うので、受け手側の責ということも考えたりしていた。個人的にいうと、こないだみた黒帯トークライブの中山功太さんがブランキー聞く自分がかっこいいと勘違いしているやつ、のような。そういう無意識に加担してしまうことと、ただ見る側だけの立場の人間の勘違いみたいなところって、ということを懇々と考えている最近だった。
いや、全然これに答えが出たわけではないのですが、それに対して自分の指標みたいなところがない私は、というか趣味というものにいくらか精神的に、自己顕示欲やらを間借りしている人間としては、ここにきて心許なさみたいなものを感じていたのだろうな、ということを思った。

それに対しての優しさを見せてくれたのがボアズだった、みたいな。
石原正晴の、ストレートな言葉を、大きすぎないライブハウスで観客の顔を見渡して伝えてくれている姿はとても救われるものがありました。

こちらが言葉にすればするほど野暮なのだけど、それでもやっぱりよかった。という日記です。

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