いちごオーレ
https://twitter.com/s96405539/status/1521810471602380801?s=21&t=mvldCeFSxQ6cDugvM47YOA
このツイートを見て、ふと思い出したことがあって記事を書いている。
と言っても、アレルギーに関することじゃなくて、皮膚繋がりで思い出したことなんだけど。
幼稚園年中さんから小学校2年生まで、スイミングスクールに通っていた。
両親曰く「万が一水難事故に遭った時のために、泳げた方がいいだろう」ということらしい。
まず姉が通わされており、年子である兄とわたしも当然の流れだった。
帽子の色でレベルが変わって、赤、黄色、水色、緑、白、、、、
もっと種類があった気がするけど忘れた。
一番上のレベルが、シリコンでできた白い帽子だった。
上級生らがこぞって備え付けの洗眼器(目を洗うための上を向いている蛇口)に、水風船の要領でシリコンの帽子を被せ、水を掛け合って遊んでいるのを見ていたので、下級生はみな憧れを抱いていた。
これまたどのくらいのスパンであったかは覚えていないけれど、次のレベルに上がるための検定があった。
定められたタイム以内に泳ぐことでワッペンが貰えて、それを8枚〜10枚くらい集めて、ようやく次のレベルへ、というようなシステムだった気がする。
最後の方には辞めたかった記憶しかない。
理由は、ウイルス性疣贅(いぼ)。
コイツはとても厄介で、一度できたら足の裏に何度でも蘇る。
行きつけの皮膚科で、液体窒素で焼いてもらうのがいつしかルーティンになっていた。
齢7の子供には少しばかり酷だ。
母から「シリコン帽子まで行ったら辞めていいよ。それまではダメ。」と厳しく言われていたので、シリコン帽子に昇格した途端辞めた。
もちろんなんのモチベもなしに、ただの幼稚園児が通い続けられるわけがない。
幼稚園生の頃は毎週母が送り迎えをしてくれて、帰りには紙パックのいちごオーレを買ってくれた。
いちごの、やさしい甘さが幸せな記憶だ。
小学校に上がるとスイミングスクールへはバスで通うことになった。
両親は共働きだったので、鍵っ子になったのもその頃くらいだ。
学校から家に帰ると、リビングのテーブルの上に兄と私の分のお菓子が置いてあって、それを水着やタオル、着替えと一緒にバッグに入れて、バスの中で食べるのだ。
バスはスイミングスクールに着くまでにいくつかの地点で止まり、他校の子どもたちを乗せる。バスの中で、お菓子は通貨になる。
兄がスイミングスクールを卒業すると、私はひとりで通うことになった。
思い返せば、この頃から図らずもひとりでいる訓練みたいになってたのかもしれない。
冬、バス停から自宅までの道のりが途方もなく感じられたこと、雨の中傘を差し、歩いて帰るときの淋しさ、幼い身体には少々不釣り合いな大きいエナメルバッグ、焼肉屋さんの前を通ったときに聞こえる笑い声と美味しそうな匂い。
久しぶりにいちごオーレを飲んで、思い出したことでした。
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