マリッジ・ストーリーを観た

 先日Netflix制作の『マリッジ・ストーリー』を映画館で観てきた。自分のための覚書のような感想です。

 離婚に際しはじめは「二人で話せばいい」というスタンスだった、これから元夫婦になる現夫婦。だけどそうすると「意志のはっきりした」「自分のやりたいことが明確にある」夫の方に必然的に妻が巻き込まれていく形になる。これは二人の会話のシーンにはっきり表れていて、だから彼女は自分を見失ったような気持ちになったんだな、と観ているうちに腑に落ちた。(ここらへんのセリフがすごく巧み)

 妻は弁護士という他者を介在させることで「自分」を守り、自分自身の言葉を取り戻していくかに見える。(弁護士のオフィスで鼻をかむティッシュを探して歩き回るの最高だった、傷つき果てて泣いてたように見えたけど、たぶんああやって話すことを以前から頭の中でリハーサルしてたのかも、役者だし)が、互いの弁護士が揃った場面ではどこかチグハグさも感じさせる。人の「本心」とは何か?という問いがわたしの中でムクムクと湧いてきた。

 やり手の弁護士を夫婦が揃えたあたりから、二人の間を飛び交う言葉が(弁護士が「代弁」したものも含めて)激しくなる。ロスの夫の家での文字通りの罵り合いは、スカーレットヨハンソンとアダムドライバーの卓越した力に圧倒されるとともに、こちらの心も引き裂かれるようだった。夫の口にした言葉は「本心」だったのだろうか?それはどちらとも言いかねる。彼は確かに彼女の死を願った瞬間があったろう。だから全く「心にもない」言葉ではなかった。でも真剣に願ったわけではないし、口にしたかったわけでもなかった。それを二人ともわかってるから、妻は夫の背を撫でてやったのだろう。(ただ、男性が女性の足下に縋るようなシーンって、それこそ罪と罰のラスコーリニコフとソーニャではないが、女性に求められる「聖性」を表現しているようでこの映画にちょっとそぐわない感じがしてしまった。あのローラダーンのセリフと合わせて考えると……うーん、あえて?)

 言葉は常に他者を意識している。自問自答しているときでさえ、他者の存在なしに言葉は成り立たない。だから「本心」でさえ、関係性のなかで生まれてくるものなのかもしれない。しだいにそんなことを考えるようになった。弁護士という盾がなくなった瞬間に彼らの感情が剥き出しになるというのもすごくよくわかる。なぜなら「盾」の向こう側から互いの思いをぶつけているときほど強かになれるときはないし、かと言って相手にも「盾」がある以上、どんなに酷いことを言われても殴りには行けない。でも二人が夫婦でなくなるためには、弁護士という他者を一度挟み、その上でのあの言葉での殴り合いが必要だったのかなあ、と。

 観終わった直後、フリーバッグのあの父親の言葉を思い出していた。「愛しているが、ずっと好きではいられない」。この夫婦もそうだったのかも。相手を罵っているときでさえ、二人が築いてきたものはそう簡単にはなくならない。でももうもとには戻れない。

 わたしは結婚とは無縁だけど、これは夫婦に限らない問題だよなあと思う。本心とか、本当の自分とか、ひととの関係性の中で育まれるものだとしたら、わたしはわたしをまだ見つけきってないのかも。そして映画を観ることも新しい自分を見つけるきっかけになり得るんだろうな、と思う。

 マリッジストーリー、いろいろ考えられて面白かった。そしてスカヨハとアダムドライバーをもっと好きになった。大作の公開が控える二人だけど、こういう役もできてほんと幅が広いなー役者さんってすごいなーと、月並みな感想を抱きました。観てよかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?