求めること 甘えること
うちの子によく「私の方が求めている」と言われてしまう。
求めていないわけが無い。求めているのだ。
求めることを伝える手段を持っていないだけなのだ。
幼少期より、幸せなことに人の縁には恵まれてきたと自負している。
自分から求めずとも、相手から寄ってきてくれることがごく当たり前の日常だった。
そして今もその当たり前の日常に生きている。
だからこそ、本当に自分が誰かを求めることになったとして、自分から「求める」術を知らないのだ。当然の結果である。
うちの子は、お互いの求める強さにバランスを取りたがる。
自分ばかりが求めてしまうことを避けようとするのである。
致し方ないことだとは思う。
とはいえ、こちらとしては必死の思いで「求めている」ことを伝えているつもりでも、それが全く届いていないとなると、これは多少なりとも心に傷を負う。
主が故に尚更だ。
自分の言葉が従者に届かないなんて、主の視点からしたら到底許されることでは無いのだから。
主のしての自信なんてあっという間に霧散してしまう。
その一方、彼氏としての自分はとにかく申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
これはこれで、彼氏としての自信を失うには十分なきっかけであることは言うまでもない。
こんな思いと日々戦いながら、うちの子が駄々を捏ねたり拗ねたりするのを受け入れる。躾ける。そしてもがく。
言葉にしてしまうと、こんな罰ゲームを誰がやるものかと思ってしまいそうになる。
だが何を隠そう、自分がこれをやっているのである。それも自分の意思で。
うちの子には、いつも「自分の意思」であることを毎回伝える。
それでもその言葉を信じて受け入れては貰えない。
うちの子は、そうしてこれまでの人生を強く生きてきたのである。
出会って数ヶ月の男を、そう易々と受け入れられない(受け入れたくない)気持ちが抵抗として強く残ってしまうことはある種自然なことだとも思う。
俺とうちの子。
実はとても中身が似ている部分がある。
違うのは、「ドミサブ」と「ポジネガ」だが、それ以外の根本的な考え方など、似通っている部分が沢山ある。
だからこそ惹かれあった。
そのうちの一つが「心の開き方と距離感」だ。
心の壁を作ることは、自分を守る上でとても簡単で有効な手段であることは言うまでもない。
これを、俺もうちの子も幼少期からずっと実践し経験として養ってきている。
自分の核となる思考は、とにかく誰にも見せてはいけないと本気で思っているのだ。
それを見せてしまうことで、自分の弱さを曝け出すことになるから。
だから、その観念をすぐに取り除けるわけが無い。
幼少期は、まさしく「アダルトチルドレン」だった。
周りに甘えることをせずに生きることが出来てしまう、それなりに器用な子供だった。
幼い頃より、「甘え」は「弱さ」と認識していた。
だからこそ遠い昔にそんなものは捨て去っていた。はずだった。
そもそも自分には「甘えたい」なんて願望があることを、つい最近まで記憶から消去していたのだ。
うちの子には、不思議な魅力がある。
甘えることを知らない俺が、「甘えたい」と思えてしまうほどの魅力だ。
母性と呼ぶには稚拙すぎるこの魅力は、俺の思考をとにかく狂わせる。
ドミナントの俺が、拒絶反応を起こしそうになったこともある。
しかしそれすらひれ伏して、俺の甘えたい願望をナチュラルに引き出してくる。もはや末恐ろしい。
「求めること」と「甘えること」を、一人の人にぶつけることがあるなんて、未だに信じられないでいる。
ただ、それが事実だ。紛れもない真実だ。
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