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サンプラー的身体

「サンプラー的身体」“sampl(ing/ed/er) body”
side A-essay
Akashi Yoshida

はじめに

 何から話し始めようか。そうした問答が第一に頭の中心に座している夜を幾度となく繰り返すほどには今私が向き合っている問題は(当たり障りなく言えば)広く深い。私はこれから《サンプリング》を軸とした上で、《リズム》《身体》《環境》などといったキーワードにも応答しつつ、未だ到達点の見えぬ現代の音楽と実存に関する議論を進めて行く。多くが茫漠とした中で唯一確かであるのは、キーワードにのみ目を向ければおおよそ音楽的な議論が多く飛び交うことが予想されそうではあるものの、実際にはその議論の射程は必ずしも音楽には限定されることはないだろうということだ。

 多木浩二は『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』にてベンヤミンの映画に対する視線をこう語る。

彼の映画制作の精密な分析は、われわれの住み着く現代社会の活動を解明する分析の比喩として読まれるべきだし、同時に完成した映画は、われわれつまり大衆を魅了する「現実」の比喩になる。さらにいえば映画が「現実」を見る視覚になっているのである。

 複製技術の発展と不可分な表現行為である音楽の現在地点を論ずる上で、上記の認識は重要である。音楽は常に時代の要請に応え続けて来たのであり、言うまでもなく時代の変遷──それは必ずしも発展や向上を意味しない──には技術の変遷が含まれるのであるからして、音楽を音楽に限定して論ずることは真に音楽を論じるとは言えず(恐らくそうした行為は不可能ですらある様に思われるが)、むしろ真に音楽を論ずるにあたっての必要条件として技術と時代に対する感応が求められるのである。

 本論は中心的なキーワードとして《サンプリング》などを扱うことは先にも述べた通りである。しかしながら、ポピュラーミュージック界隈で最もサンプリング手法を用いた音楽制作が一般的とされているヒップホップを中心に据えた上でサンプリングについての言説を展開すること、サンプリング・ミュージックの発明におけるヒップホップの権威化を避けた上でのサンプリングについての考察を行う 。まさしくそうした単一的な歴史記述からの脱却、イデオロギー的なものの脱文脈化、それに伴い認識される点と点とをミキシングする科学にこそサンプリングという行為の社会的、音楽的な「特性」があるという考えに基づくためである。従って本論ではDJカルチャー一般に留まらず、コラージュアート、並びに哲学領域におけるコラージュ(あるいはブリコラージュ)概念などにも適宜応答する。サンプラーという、一つの身体という条件からの解放を誕生当初より目論む音響機器の機能性を、身体一般が備え持つという仮説に基づく理論的な考察と実践を持ち寄ることを予定している。

 現象が同時発生する世界にありつつも、我々は世界の多層性を認識することなく、単一の線で世界を知覚しようとする。そうした実際を踏まえつつも、デュボイスが語るところの二重意識(デュアリティー)、つまりはアメリカ人としての魂と、黒人としての魂の共在といった複数意識の共在 は必ずしも黒人にのみ持ち得る特権的な意識機能ではない。多重性、多層性のある世界にて生を営む者であれば誰もが必然的に多重意識(マルティチュード)を抱え生きていると私は感じていると共にそのような感覚を論理化することを目指し議論を進める。それは同時に、サンプリング、ミキシングなどが表すように、一つの身体という人間的条件に向けて発露する複数性への欲望と跳躍についての言及も行うことを表している。

 音楽表現におけるサンプリング利用は個々の音響物が持つ文脈的な性質を剥ぎ取り、再構成する中で異なる時空間に位置する音響物同士の意図せぬ相関性を意図せず現前させた。そうした音響制作は、音響物同士を組み合わせることが生む新規性のある文脈の発見、創出を当初のモチベーションとしていないことは留意しておくべきであろう。むしろ、そうであるからこそJ.アタリが指摘するところの権力の道具としての音楽表現や、統一的認識により精神に発生する内部のファシズムとの無縁さ、つまり統一性、全体性との隔絶が生み出したサブカルチャーでしか成し得ない、旧来的な進歩史観上とは異なる線上にある生の様相を認識する助力となる要素をサンプリングという煩雑な編集行為は結果的に持ち合わせているのだ。

 そうした背景を元に制作される本ポートフォリオはそれぞれ異なる形式、あるいは意図を備えた記述とイメージの配置を行うことを予定している。各サイド、並びに各節はそれぞれ独立した機能を持つ文章、イメージなどによって構成されると同時に、必ずしもそれらは明確な順序に規定された読み方を強制しない。それぞれは独立した構造体であると同時に、時として個々に結び付く場合もあれば、離反し合う可能性も考慮される。意図するところは、具体的かつ一本筋通った物語的(ナラティブ)なものを構成にならって読み取ってもらうことにあるのではなく、むしろ読み手個々人がここにある文章、画像などを編集し直し、解釈することにある。

 サンプリングを取り巻く状況は劇的に変化した。今やサンプリングを盗作まがいの制作行為であると非難する声を聞くことは滅法減ったことに加え、サンプリングによる音楽制作がヒップホップやハウス/テクノの領域を大きく飛び越え、ポップスやR&Bの領域にも適応されている状況を見れば、サンプリングが一種のパラダイム・シフト的な認識を受けていた時代がはるか過去のようにすら思えてくる。その上でサンプリングは2019年現在、改めてその価値が問われる行為であり、発想であると私は考える。それはメディアやテクノロジーが想起させてきた進歩史観が、すべて正しかったとは到底言えず、むしろ(インターネットによる水平化が機能せず今や数多の憂鬱を引き起こしていることを鑑みれば)ある側面においては危険性が取り沙汰されつつも、当時の幻想、垂直的な歴史のあり方が今も存在することへの渇望が色濃く残る時代におけるオルタナティブな思考の活路である。サンプリングとは議論を投げかけることだ。同時発生的で、単一の線で認識してしまいがちな世界に対する水平性の投げかけなのだ。分断の時代における、再編集の意義を問いかけることなのだ。我々の身体、そして思考はサンプラーと同様に線形の理論から脱する力を有していると言える。

 「始まり。こいつはいつだって難しいところだ。ひとたび流れに入ると、いつだってその成り行きに捉われてしまう。この結果だの、あの結末だの。わかるだろう?その不確かさこそが、ストーリーを繋ぐもの、これからぼくが話そうとしていること。リズム・サイエンス。神話の科学。」

 ポール・D・ミラーが『リズム・サイエンス』冒頭にてこう言述したように、本論の内容も実に不確かでありつつ、流れに捉われすぎることなく実存の変容について言及していく。音楽、サンプリング、リズム、アンビエント、身体、知覚、アートと無数に飛び交うフレーズの断片を繋ぎ合わせ、まだ見ぬ結末とやらを目指すとしよう。

目次

はじめに
A-1. 無限の切断
 A-1.1.「分衆」化と脱神話化
 A-1.2.「分衆」化とサンプリング
 A-1.3.サンプリング的サンプリング解釈
A-2. 媒介する身体
 A-1.1.音楽と身体
 A-1.2.音楽におけるメディアとライブ
 A-1.3.知覚と身体
A-3. 軽やかな知覚
 A-3.1.アンビエントへと至る道
 A-3.2.軽やか、そしてくつろぎ
 A-3.3.開かれた身体
A-4. 溶ける踊り
 A-4.1. 揺らめく現象としてのリズム
 A-4.2. 分子化する群衆
 A-4.3. 繋ぎ合わせる踊り
A-5. サンプラー的身体
 A-5.1.円環するサウンド
 A-5.2.所与としての他者性
 A-5.3.全ての音
謝辞
参考文献/参考WEB

A-1. 無限の切断

A-1.1.「分衆」化と脱神話化

 最早自明のこととなってすらいるように思われるが、我々が日常的に耳にする音の多くは「録音された音(楽)」である。都市を歩けば、四方から録音されたアナウンス音や記号音が鳴り響いていると共に、人々は個々人のクラウドを所有しその中にMP3データとして記録された音源を格納し持ち歩き、生活の中で適宜音楽を「再生」する光景が至る所で日常的営為として繰り広げられていることが分かる。また、現代の音楽制作においては「録音された音(楽)」を「参照」 するという行為が非常に大きな比重を占めている。参照は実際の音源を直接的に引用する形での参照のみならず、蓄積されたデータベースから任意に情報を抽出し、シミュラークルを生成するといった参照行為を土台とした楽曲制作手法が広く普及している。

 現代のフランスの思想家であるJ(ジャック)・アタリは、「音楽は単に研究の対象であるばかりでなく、世界を知覚する一つの手段でもある」と述べると共に、音楽という一つの素材を通して以下のように社会を分析した。

「資本の所有形態の如何を問わず、音楽は、今日、もはや何事も起こり得ないであろう反復的社会の確立を予告している」 

「社会的形態を非儀式化し、身体の活動を対象(もの)のなかに押し込め、その行為を専門化し、見世物(スペクタクル)としてそれを売り、その消費を一般化し、ついにはそれをストックすることによって、その意味の喪失にまで至るのである。」

 蓄積された音楽の歴史は、インターネット普及以降時間的な重さを喪失し、フラットなデータベースと化した。音楽は所有するものから、循環されていくものへと変わっているのだ。 そうした背景には当然ながら複製技術の台頭があるのであり、まさしく複製技術と不可分な時代の中で音楽は脱体系化し、聴衆は分衆化した。統一的なイデオロギーや構造が近代同様機能し得なくなっていることは、音楽の領域に限らず世界の様々な領域で同時発生的に起こっている現象であり、既に国内外を問わず多くの学者によってそうした分衆、ないし分裂的な状況が分析されてきた。

 『聴衆の誕生 ポスト・モダン時代の音楽文化』を著した渡辺裕は、本著執筆当時(1989年)付近にて出会った音楽学生の音楽的知識の偏重具合や、当時のコンサートのリストなどを参照しつつ、かつての「巨匠」とされてきた音楽家達の権威が以前のようには機能していない状況を感じ取っていた。巨匠達の脱神話化、クラシック界隈における「ヒーローの不在」現象について渡辺は以下のように語る。

「これは旧来の「巨匠の名曲」を軸にした価値秩序の崩壊である。しかも、そのあとに新しい価値秩序が浮かび上がるのではなく、さまざまな音楽が価値の差別なく並存する並列化現象を起こしているように見える。今はやりの言葉で言えば、そこで起こっている現象は音楽の「カタログ化」である。(中略)このような価値の平板化が生じた理由の最大のものが、「複製」の氾濫による音楽の過度の増殖であることは明らかである。それはまさにベンヤミンの言う「アウラの消失」を地でいったような現象である。(中略)そしてこのことはおそらく、音楽に限らずどこの分野でも生じている「情報洪水」と軌を一にする現象であると言ってよいかもしれない。」

 渡辺は芸術の日常化、それに伴う鑑賞者の関心の分化により、従来的な共通の土台とも言える権威が存在しなくなりつつある現象を「分衆」化と呼んだ。

 「分衆」化現象、ないし「巨匠」の脱神話化の現場での一例として、渡辺は「巨匠」の代表格でもあるベートーヴェン作品に対する解釈の変化を挙げている。

「巨匠の脱神話化を象徴するような現象に、オリジナル楽器によるベートーヴェン演奏がある。かつてはせいぜいバッハどまりだったオリジナル楽器による演奏の守備範囲がこのところ急速に広がりはじめ、ホグウッド率いるアカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックはモーツァルトを通り越して、とうとうベートーヴェンに手を染めだした。(中略)これらの演奏を聴いてみると、たいへんに軽やかな印象があり、われわれがつい最近まで親しんできたモダン楽器による重厚なベートーヴェンの音色が、作曲家の死後に蒙った歪曲の産物であるということがよくわかる。「意思の人ベートーヴェン」のイメージが、作曲家の死後、その実像にお構いなくどんどん作られ、神格化されていったように、彼の作品のイメージもまた、十九世紀の伝承過程の中でより重厚で力強いものへと変質させられていったのである。その意味で、ホグウッドをはじめとする最近のオリジナル楽器演奏家たちがこの「禁断の領域」に入り込み、伝統的なベートーヴェンの演奏のイメージをあっさりこわしてしまったことは、まさにベートーヴェンの脱神話化と呼ぶにふさわしい出来事であると言ってよい。」

 渡辺がこのように語るように、かつての権威の変質は歴史的研究の成果とは必ずしも無縁ではなく、むしろその両輪によって為されており、かつ解釈の多様化を産んだ。

 共通の土台がないということはつまり大衆が画一的なものではなくむしろ差異にこそ価値を置くことを意味する。差異への着目の上に成り立つカタログ的な音楽との関わりは、ある意味では「学者的発想の大衆化」でもあると先の引用に続いて渡辺は述べる。曰く「あらゆる作品にできる限り等距離で客観的に対し、恣意的な差別を排して厳密な一覧表を網羅的に作り上げようとするのは、典型的に音楽史学者の発想だからである」 とのことであり、史学者は既に十分に研究されている音楽家、楽曲よりもまだ研究され尽くしていないように思える領域に興味を持つ傾向があるとするならばそうした指摘は的を射ていると言える。先に触れたオリジナル楽器による楽曲の演奏はそうした差異に重きを置く鑑賞態度とも連続する傾向であり、まさしくこれまで権威の前に「隠れていた姿」のバリエーションに大衆が関心を寄せ始めていたのだ。

A-1.2.「分衆」化とサンプリング

 さて、社会、並びに社会を構成する人々の分裂傾向については既に触れたが、どうにも私には先に触れた分衆化現象とサンプリングという表現行為が無縁とは思えなかったのである。しかし性急にサンプリングに議論を移すのではなく、ここで一度立ち止まりサンプリングと隣接する表現にも目を向けてみようかと思う。椹木野衣によって著された『シミュレーショニズム』におけるシミュレーション・アートの分析からも分かるように、そこで大々的に用いられた他者の作品をシミュレーションするという略奪的行為は「近代的なオリジナリティ」からの反動から生まれている。椹木野衣は『シミュレーショニズム』にて、シミュレーション・アートの起源は白人にあり、音楽領域におけるサンプリングやリミックス行為の起源は黒人にあることを指摘しつつも、両者は歴史が1本の直線上に進行し、発展していく進歩史観的発想とはそぐわない態度を備えた現象としての共有点を見出した。

 そして同時に、もう一つの共通する点としてそれらがマイノリティによって行われた表現であることを挙げている。椹木はハウスがゲイの黒人男性を中心として発展したこと、ヒップホップがゲットーに住む黒人の若者を中心にして発展したこと、シミュレーションアーティストに多くの同性愛者、女性、移民やサブカルチャー嗜好者がいたことに触れ、「それまで、芸術の歴史的正統からは排除されてきたひとたちが多く見られ 」ると述べた。ここまで述べて来たことをやや乱暴ながらもまとめるのであれば、シミュレーショニズムの活動や、分衆化現象に共通する点として、既存の価値体系が崩壊して以降、新たなる参照の態度と、それを前提とした上での鑑賞と創作の構図が立ち上がっているように思える。言うまでもなく、それは渡辺の引用にも触れられている通りベンヤミン的なアウラの喪失、並びにそれを引き起こした技術的背景とは無縁ではなく、ある意味ではそういった現象は「時代の象徴」であるのかもしれない。

 しかし一つサンプリング、ないし芸術表現を眼差す際の大きな落とし穴として、それが非近代的なオリジナリティの追求、つまり近代的なそれとは決定的に異なる発想から導き出された「結実としてのオリジナリティ」ではなく、近代的な構造主義とは「反する形のオリジナリティ」を志向した結果の表現行為として認識される可能性がある。先に触れた「分衆」化現象を提示した渡辺裕が、「分衆」化現象を提示すると同時に従来モダンな器楽で演奏されたベートーヴェンが徐々にそれまで使われることなかった音色と共に解釈されている状況を例示しているが、このような試みはヒップホップの文脈におけるレアグルーヴへの志向との接続を想起させる。事実レアグルーヴ志向にて見られる、垂直的な歴史記述の中では語られることのなかった文化の側面を掘り起こす作業、あるいは権威性を帯びた歴史記述に対する懐疑的な視線、歴史的な価値転換への試みは実にポスト・モダン的である。このようにヒップホップ、クラシックとジャンルを問わず共時的に勃興する価値転換的な試みを総括して、「ある時代の特性」と認識することは実に容易である。

 しかしながら容易なものには常に何かしら、容易である故の危険性、ないし理論的脆弱性が付きまとうものであると同時に、これまでの線形の理論が通用し得なくなっている「時代」とやらがそこにあるのであれば、それは「これまで通りの時代への眼差し」と同様のものを向けたところで真に理解されることはない。椹木の「時代精神の過度の強調は同時にその時代精神が来るべき時代精神のよって乗り越えられることをすでに前提としている」 との言及はそうした意味で非常に示唆的である。「歴史のダイナミズムはつねに複数の力の同時進行。消滅、脈動、同時生成などによって発動することに忘却的であってはならない」 との椹木の発言や、ベンヤミンが複製技術という主題を掲げつつも芸術、文化、時勢、技術そのいずれかに注力しすぎることのなかった態度を鑑みても我々は何かしらの「決定論的」な視点に立って現在を語ることの危険性に自覚的である必要を促されているように感じる。事実渡辺も、『聴衆の誕生 ポスト・モダン時代の音楽文化』を著した7年後に、執筆した本書の新装増補版にて追加された補章にて、当時行なっていた神話の解体作業がある意味では別の神話の再生産にも接続する行為であることを認めている。

 このような前提の上で考えると、サンプリングの特性をこれまで焦点を当てられることのなかった作品、あるいは作品の特性、そして芸術家像を再確認するための表現行為であるという前提を疑う必要性が浮かび上がってくる。サンプリングの特性をそのような文脈を再構築する機能であると言及する発言はこれまでにも多く存在してきた。そのような言説は、ある意味では個人主義が進んだ時代における音楽的なコミュニティの活性化への助力となり得る、音楽の社会的役割を与えた。そのような結果的に付与された役割の影響か、私もサンプリングに関する研究を始動するにあたって「サンプリングの意味性」を主軸に置いた研究を行う予定すら立てていた。だがそれはある意味では作品への評価軸や価値判断基準が神話性や構造などから転移しただけとも言えるし、また作品を評価する態度そのものは根本的には変わっていないとすら言える。反モダン的価値の提示としてのサンプリング、並びにシミュレーションは、ある意味では新たなる価値体系、価値判断を立ち上げる作業であるとも言えると同時にそうした発想は得てしてモダン的ですらあると言える。ヒップホップにのみ限定してサンプリングを語るのであれば、むしろそれは社会的な役割とは無縁な遊戯性や無作為な悪意から生まれている。ゲットーに住む人々の街場のプレイグラウンドで行われたパーティが社会的な影響力を持つことを想定した上で新しい表現手法を開拓したとは到底思えない。結局のところレアグルーヴに重きを置いた(ヒップホップにおける)サンプリング解釈はヒップホップが社会的な影響力を持ちうる段階になって起こった後付け的な社会的有用性を担保するための言説であるとすら言えるのである。複製技術、そしてインターネットの普及に伴う参照行為の一般化は冒頭にて触れた通りであるが、そのような状況の中では益々のことながら制作と受容の境界設定が非常に曖昧になる。遊戯的に作られたものに対して理論的な分析を試みること自体を無益であると断定する行為は避けたく思うが、制作者の倫理を前提とした構造的な解釈は時として事実を必要以上に歪曲し得る危険性を持つことに自覚的であるべきである。

 加えて、レアグルーヴ志向はある意味では従来の構造的聴取と同様に、音楽的な知識や歴史的背景への理解、つまり文脈依存の聴取態度の残滓を伺わせる。「知識を前提としなくとも、過去の膨大な音楽のアーカイヴに用意にアクセスできる時代があっという間に到来してしまった。(中略)ランダムに多様な音楽へアクセスが可能となったときに、初めて人々は音楽をミックスする楽しみを概念ではなく身体で知ることになったし、音楽を他人と共有する楽しみも理解したのだ。」 とは『音楽から解き放たれるために -21世紀のサウンドリサイクル』を著した原雅明の言及であるが、原と先に挙げた渡辺は両者共に執筆当時の若者のルーツ的な知識の欠如を前提とした上で「音楽」とは異なる「サウンド」の世界が切り開かれている状況へと触れた。一方はクラシック、もう一方はヒップホップという一見して両極端なジャンルに位置する音楽を分析する両者の意見がこうしてある種の一致を見せていることは当然ながら偶然ではない。しかしまた、奇しくも、そして同時に惜しくも両者の言及が一致しているのは先にも触れた「サウンド」の時代における「価値の解釈」へと、つまり以前の価値に対して優位性を持つ新規の価値へと議論を帰結している点にあるのである。

 レアグルーヴにて担保される優位性は、「他人よりも音楽を知っている自分」としてのオリジナリティ、それは換言すれば文化的な精通度の証明である。埋没された歴史の断片を繋ぎ合わせ作られたサウンドを元に自身の文脈解釈として提示する、といった観点、ないし態度を所有した表現行為として(ヒップホップにおける)サンプリングの初期を分析することはそれ自体非常に西洋的な観点に裏打ちされていると言えるのだ。ターンテーブルを二枚使いする、そしてブレイク部分を反復し、ブレイクビーツを作り出す、などといったヒップホップ初期に見られた発想は結果としてある種の芸術的な視点から分析することは可能でありつつも、それは西洋的な芸術的視点の持ち主によって生み出されたものではない。そこに根ざした視線は、ストリートの、苦境と隣接した生活圏に位置する人間による現実を歪曲、ないし異化するユーモラスな視線である。となればレアグルーヴも、結果として分析できるものは何であれ、その誕生はよりユーモラスに、社会的、あるいは芸術史的に持ちうる意義とは切り離して考察されるべきであり、それ故に、サンプリングの核心をレアグルーヴ志向的な楽曲の「再解釈」として捉える向きは、むしろサンプリングが持つ可能性に対してある種冒涜的ですらあり得る。

 加えて、レアグルーヴ文脈の発生は、ヒップホップにおけるある種暗黙の内の「クールの美学」としての大ネタ嫌い傾向による影響もあるかと思われる。大ネタ使いは、既存のヒットソングにおけるフレーズを直接的に流用することを指すが、そのような行為を嫌う原因としては主にそのクリエイティビティのなさ、つまり既に社会的な価値が確かめられた作品を直接的に引用する開拓精神の乏しさに対する嫌悪感が挙げられる。しかしそれだけに留まらず、サンプリングの普及に伴い著作権法が強化された故に大ネタ使いをすると楽曲を発売できない危険性が伴う、あるいは原盤権の持ち主にクレジット代を支払う義務を嫌ったと言う背景と、大ネタが既に社会的に浸透した楽曲を用いるため、原曲を上回る楽曲を制作することが時として難しく、そしてまた、原曲の心象を安易に想起されることを嫌った故に生まれた可能性も考慮される。無論実体はそれらの総体であるかと思われるが、ことヒップホップに関してはボースティング文化もあり、ヒップホップ当事者の発言が必ずしも真実を語るものであるとは断定しにくい嫌いがあることにも思考を行き届かせるのであれば、なおのことレアグルーヴに対するこれまでの認識に一つ疑念を持つことの正当性が浮かび上がるのではないかと思われる。

 しかし本章での主題は原、渡辺の議論を批判検討することによって一つの見解を導き出すことにあるのではない。原が『音楽から解き放たれるために -21世紀のサウンドリサイクル』を著したのが2009年、渡辺に至っては『聴衆の誕生 ポスト・モダン時代の音楽文化』を著したのが1989年であり、2019年現在を語る上でこれらの著作における議論が時として的を射ないことは言うまでもない。時代の速度が限りなく向上した現在にあっては、かつては50年単位、20世紀では10年単位で生み出されてきたような劇的な技術的パラダイム・シフトは最早年単位と言ってもいいほどの速度感で生み出されている。事実音楽の現場だけに焦点を当てたとしても、ここ10年の間にパッケージとしての音楽はほぼ瀕死と言っていいほどに価値を喪失し、音楽を共有する傾向はサブスクリプションサービスの展開に伴いより一層激化され、そうした状況が音楽そのものの構造にも影響を与え、挙げ句の果てにDJの現場にレコードが持ち込まれることすら珍しいような状況が生まれている。なればこそ彼らの議論は批判対象としてではなく、あくまで一つの参考として認識するのが誠実な態度ではなかろうか。

A-1.3.サンプリング的サンプリング解釈

「The thing that frightened people about hip hop was that they heard people enjoying rhythm — rhythm for rhythm’s sake. Hip hop lives in the world of sound — not the world of music — and that’s why it’s so revolutionary. What we as black people have always done is show that the world of sound is bigger than white people think. There are many areas that fall outside the narrow Western definition of music and hip hop is one of them.
ヒップホップはサウンドの世界にある。音楽の世界ではなくね。そしてだからこそヒップホップは革新的なんだ。我々黒人が示してきたのは白人が考えているよりももっと大きなサウンドの世界があると示すことだ、狭い西洋の限定された音楽から外れたところに、沢山の領域がある。ヒップホップもその一つだ。」

 本引用は原が『音楽から解き放たれるために -21世紀のサウンドリサイクル』冒頭にて引用した、マックス・ローチによる発言である。ヒップホップに象徴的に見られる、音列構造的な読解とは異なった聴取、ニュアンスを持たないサウンド、テクスチャーに対する関心へと接続する議論へのインタールードとして本引用が用いられたことからも分かる通り、本著においての原の関心はヒップホップに見られる「サウンド」と、その循環にあるのである。しかしながら先にも述べた通り、ヒップホップを分析する上でのレアグルーヴ志向、ないしモダンな歴史記述へのカウンター的発想はそれ自体が何がしらかのイデオロギーを有している可能性を持つ。

 また、先に挙げたベートーヴェンの作品におけるリワーク傾向、それは全きの同一性を保持しているとは言えずとも、確かに「リミックス」的な性質を有していると言える。それまで立ち上がることのなかった作品への認識、そして差異を浮かびあげる制作、聴取態度の勃興などに目をつけた渡辺や、原によるマックス・ローチの冒頭に引用にも見て取れる、ジャズ・ミュージシャンが捉えようとし、それでいて捉え切ることのなかったサウンドの地平。彼らは、かつて正統的とされていたものが起こしている機能不全に対して、機能不全を起こした正統的な視線を投げかけた、そこが落とし穴だ。彼らはあくまで連続性の上で時代の変化を捉えていたと言えるし、あるいは彼らは時代の変化を「決定的な変化」(それこそ認識の方法を変化せざるを得ないほどの)と看做していなかったとも言える。

 音列による構造的聴取とサウンド的な身体知覚を同様の方法論で語ることなど誰ができようか。クラシックとヒップホップとはそれぞれ異なった分析の手法が用いられるのと同様に、複製技術以前と以後とでは同様の認識論が機能しないことを認めるべきだ(時代に明確な分割を行うことが難しいにしても)。『リズム・サイエンス』にてポール・D・ミラーが行なったサンプリング的な記述方法でサンプリングについて論じたのと同様に、サンプリングは、サンプリング的な発想を土台に眼差されるべきである。目には目を、分裂には分裂を、そしてサンプリングにはサンプラー的思考をもって接するのがそれこそ「正統」とは言えまいか。サンプラー的視点なしにサンプリングを語ることは出来ない。

 サンプラー的思考、ないし視線を持つということは何を意味するのであろう。サンプラーの起源をどこに置くかは非常に難しい。ある意味ではシンセサイザーもサンプラーであると言えるし、メロトロンやシンクラヴィアといった楽器もまた同様にサンプラーであるとも言えるし、これらはサンプラーの起源の一つとして語られる場合も多々ある。ここでの目的はサンプラーの起源を再解釈することにあるのではない。むしろ「サンプラー的に思考する」のであれば歴史も同様に無限のリミックス、つまり改変、再編が可能なのであるから。だが一つ確かであるのは、上記の楽器群はそれぞれ、一つの楽器に対して一つの音が割り当てられることへの反抗を伴って生まれているということにある。サンプリングは繋ぎ合わせる。繋がれる点と点は必ずしも隣接している必要はない。必ずしも同様の表現、表現形式である必要はない。サンプリングは理論上全ての存在を繋ぎ合わせる可能性を持っているのだ。まさしくそのようなサンプリングの特性と、本論での試みの上で、私は音楽のみに焦点を当てることなく、むしろそれを取り巻く全てに目を行き届かせる努力(言うまでもなく全てを網羅することなど不可能に他ならないが)と、何がしかの領域に固有の価値を帯びさせる類の恣意的な判断を認識の内では拒否する努力をした上で議論を進めることを目指す。この取り決めに基づけば、シミュレーション・アート、アプロプリエイション・アート、ハウス、テクノなどといった幅広い表現様式をその射程の内に取り込んだ上で、サンプリングについてのみならず、サンプラーが可能としたサンプリング、カットアップ、リミックスそれぞれへの言及を試みた椹木の論を全面的に引用する背景は理解していただけるのではないかと思われる。それでは以下に引用文を記載する。

「サンプリングは、既製品としてのディスク・ミュージックの一部を略奪的に流用し、それを新たなコンテキストの中に接合することによって現意味を脱構築する。カットアップは、サンプリングを敢行する際に、その現意味を爆破するための分裂症的手段で、その原型をウィリアム・S・バロウズの言語実験に求めることができるであろう。リミックスはこうして形成されたサンプリング・ミュージックのプライオリティを再度脱構築することになる。原則的には一種類のサンプリングからは、無限のリミックス・ヴァージョンを導き出すことが可能である。」

「サンプリングは引用しない。それはあくまで略奪的な戦略なのであり、「引用がそれをなす当事者の表現的自我を不可避的に肥大させる」のに対して、サンプリングを敢行した当事者の自我は抹消され、無名性のなかに霧散する。」

「サンプリングが引用でないのと同様に、カットアップはコラージュではない。コラージュがいかに異質な要素を同一平面上に共存させようとしているにしても、結局のところそれは、箱庭的な予定調和を目指す表現者の趣味性を具体化する一方法といった感は免れない。これに対してカットアップは、むしろ等の表現者を裏切るべくして機能する。そこには切り刻むことによる偶然性が乱暴に導入され、この偶然性が選択者の意志の必然に従った配列とあいまみえて進行してゆく。そこでなされているのは、かつて瀧口修造を中心として活性化したジャパニーズ・シュルレアリズムのごとき、空想を具体化する一手法としてのコラージュなどではなく、むしろそうした無意識的な空想の凡庸さを破壊し、そのような虚構の弱き「超現実」を、より強度を有した理不尽なる現実にさらすことにある。」

「リミックスは、サンプリングされ、カットアップされた分裂症空間を、微小な差異を連鎖的に形成する反復へとさらすことによって欲望の無限連続体を導き出す。この意味においてリミックスは、サンプリングが引用と、カットアップがコラージュと分離されたように、その原型に対する距離の特殊な形成において、パロディと厳密に峻別されるべきものである。パロディとは、要約によってなされる、当の対象の本質直観に基づいている。しかし、リミックスは決して要約しない。それはひたすら反復する。レヴェル・ダウンしようがレヴェル・アップしようがかまいはしない。そこで行われるのは盲目的なまでのひたすらの反復である。」

 椹木の引用からも見て取れる通り、サンプリングは引用と、カットアップはコラージュと、リミックスはパロディとを明確に峻別したことは引き続く議論の中でも重要な視点となる。加えてサンプリングによる脱構築は結果として自我を抹消すると言及している点についても注目したい。これまで議論を重ねてきた内容とも類似するが、サンプリングは表現者の固有性を明示する行為とは厳密に異なる表現行為であるのだ。椹木のサンプリング、カットアップ、リミックスに関する言及からも明白である通り、これらの行為が生まれたことにより演奏の一回性や、作者の安全圏は完全に消え去り、あらゆる作品は須らく改変可能性という無造作な「外からの脅威」に晒されることとなった。ミュージック・コンクレート、Wバロウズによる言語実験、シミュレーション・アートなどといった旧来的な表現とは隔絶されたサンプリング的行為が多発したことは偶然ではない。サンプリング的行為はある種時代の要請を受けて生まれたと言えるし、また複製技術の台頭により変容せざるを得なかった実存が引き起こした分裂的自己を精緻に描くことを無意識的に目指した故に思想と表現であると言える。

A-2. 媒介する身体

 先述の通り、記録と再生の技術が我々の日常を取り巻く現在、我々が耳にする音の多くは、記録された音、ないし音楽である。このような前提的背景を共有した上で、表現行為であると同時に思想でもあるサンプリングを論じる重要性について焦点を当ててきた中で、身体が次なる鍵語として挙げられることに些か疑問を抱くかと思われる。事実我々がデータベースの中に落とし込むそれぞれの音楽は、実際には単なる波形データでしかなく、そこに身体は介在しない、という言い分は事実でもある。しかしながら、私は音楽を論じる上で身体に関する言及は否が応にも避けがたい内容であると感じていると同時に、むしろこのような時代性を考慮した上で現代における音楽と身体の関係性を再解釈する必要性を感じているのである。

 音楽に関する評論やメディアは実に安易に「時代」という言葉を伴った形容を行うことがしばしばあるが、時代は音と同様に流動的な概念であり、同時発生的であり、それ故に厳密に特定の地点を観測することは困難を極める。もちろんのことながらそういった評価には音楽以外の価値判断が含まれるのであって、それは真に音楽のみに向けられた言葉ではないことは言うまでもないかと思われるが、それでは果たして音楽の今を具体的に観測することは不可能な行為なのであろうか。

 時代という不確定性を伴う概念に寄り添う音楽の諸相を極めて具体的に記述することは言うまでもなく多大なる困難を伴う。しかし唯一確かであることは、原雅明が「音楽はパッケージから解放され、必要に応じてバラバラに解体され、パーツから再び編集され、多様な形態で再生されていく可能性を持ち続けるだろう。レコード盤を除いて、もう物理的なパッケージを纏うことはないだろうが、データとして、録音芸術/複製芸術としての音楽の価値は生き続ける」 と述べた通り、複製技術以降、音楽を取り巻く状況は大幅に更新され続けている事実があり、その更新の速度は今尚加速度的に向上し続けているということである。

 続けて原は、「音楽はもはや単体として個別的に孤立的に在るのではなく、多様なパーツの予期せぬ結びつきと幾重もの過去の記憶の組み合わせから立ち現れるものだ。」 と述べるが、そうした言及は先の引用と合わせて捉えると、まさに従来のアドルノ的な構造的聴取が今やかつてのような価値を持たないばかりか、それどころか楽曲の長さや社会的な影響力を問わず単曲がiTunes Storeで250円という均一価格で販売され、平板化の一途を辿っていること(渡辺裕はそうした価値の並列化現象を音楽の「カタログ化」と例えた) 、そしてそのような状況はサブスクリプションサービスの広範な浸透により更に一般化した現在の状況に対する指摘としても今尚有効性を持つ。旧態依然とした聴取なき時代において、我々は何を基準として音楽と対峙するのか。本章の主なる問いはまさにそこにあるのであり、構造への信奉なき時代の音楽が立ち上がるところに身体を経由した音楽との接続があると私は仮説を立てた。それでは本論へと話を移していきたい。

A-2.1.音楽と身体

「形式主義者の分析は、音楽の理解を純粋に知的なものにしようとするが、音楽というものはそもそも身体のリズムや動きに根ざしている」

イギリスの思想がアンソニー・ストーのこうした論は、身体性が極力排除されてきたクラシック音楽を念頭に置いた上での論でありつつも、あるいはそうであるが故に音楽が身体、動き、踊りと根源的に繋がっていることをより強固に証明していると言える。

 しかしながら西洋芸術音楽の研究においては、音楽の意味を形作るのは音同士の構造的関係(テクスト)であり、その音楽的テクスト、つまり楽譜が音楽作品であると考えられてきた 。そうした(今日に至ってはやや現実と乖離した)考えに対する批判としてスモールは彼の著作『ミュージッキング』の中で以下の4点を挙げた。

1.音楽を演奏するということが、音楽創造プロセスの一環として位置づけられていない
2.音楽演奏(musical performance)は、作曲者から聴取者への一方向的なコミュニケーションだと見なされている
3.音楽を演奏することが、演奏される音楽よりも重要な意味をもつことはないとされている
4.どの音楽作品も、独立した自律的存在と考えられている。

 聴覚は触覚の拡張であり、その証左として我々は音楽を言語化する際に「重い」、「熱い」、などといった皮膚感覚や身体感覚を土台とした評価を下す場合が往々にしてある。また、事実として音楽は作品であり、楽曲であり、構造であり、記号であり、分析対象であるが、それと同時に、身体を経由した経験でもある。そうした音楽の実態と、音楽によって根本的な次元とは、音楽がパフォーマンス(遂行)であり、イヴェント(事象)であり、プラクティス(実践)であるというニコラス・クックの主張を踏まえ、音楽学者である山田陽一は彼の著作『響きあう身体 音楽・グルーヴ・憑依』の中でこう述べる。

「意味ある行為としての音楽は、テクストとして読まれるのではなく、身体的に経験されるべきなのである。それゆえ音楽の研究においては必然的に、音楽を実践し遂行する身体や、音楽を聴き取り感じ取る身体の経験を多面的に描き出すことが重要となる。」

 身体的経験は個別的かつ具体的であるが、それと同時に、我々の身体は社会的・文化的実践や経験からも影響を受けることから、身体は常に自然であると同時に社会的、かつ文化的でもある。こうした身体の多義性を理解しつつ、音楽の意味理解を身体と社会、音楽的身体と音楽的時空間、つまり内在と外在の両側面から視点を踏まえた上で進める必要性があると言えるのではないか。

 ここで述べている内容は、エレクトロニックミュージックの台頭や、メディア・テクノロジーの普及に対して身体性、身体的な表現の価値を再認識して、よりその価値を音楽領域に持ち込もうとする意図から記されているわけではない。先にも述べた通り身体が影響を晒される社会の大きな部分としてメディアは存在していると共に、安易に身体とメディアを区分して考察することができないという問題も存在する(その点については後述する)。そのことからも、むしろ身体とメディアの関係性を並置することを目的とする次節への繋ぎが本節の目的となると言える。

A-2.2.音楽におけるメディアとライヴ

 前節の内容を現代のポピュラー音楽の領域に落とし込むと、「ライヴ(身体)」と「メディア」の存在が浮かび上がってくる。「ライヴ」、ないしは「ライヴ性」といった概念は、録音メディア・テクノロジーが登場した後に生まれた、あるいはそれ以前には存在し得なかった概念である。そうしたライヴとメディアの相互依存的 な関係からも、音楽(におけるライヴ)を考察する上ではメディアと並行的に考察を深めることが必要であると思われる。

 現代におけるライヴ表現と録音メディア表現の混在した音楽表現領域を整理する一つの足がかりとして、民族音楽学者であるトーマス・トゥリノの分類をここで引用する。

▼ライヴ・パフォーマンス

・参与的 participatory
-演者と聴衆との区別がない
-不特定多数のパフォーマンスへの参加、それ自体を目標とする

・上演的 presentational
-演者と聴衆の間に明確な区別
-聴衆や踊り手などの集団のための音楽演奏を行う

▼録音音楽

・ハイファイ high fidelity
-演者と聴衆は録音行為により仲介される
-ライヴ演奏の指標や類像の創造を目的とする

・スタジオ音響アート studio audio art
-リアルタイムでの表現を意図しない、録音されたサウンドアートオブジェの創造
-サウンド制作、操作手法といったプロセスを公表する(それらを含めた上での制作物への評価が与えられる)

 音楽の用いられ方や発表の場によって分類が流動する、ないしは複数の分類に割り当てることが可能になる場合が考慮されることから、実際に上記分類がそのまま現実に存在する音楽に完全に当てはめられるわけでは当然ながらなく、むしろこれらの分類が複雑に混交していると言える。こうした分類を念頭に置きながら現在のポピュラーミュージックに目を向けてみると、日常的に世界中の「メディア化された音楽」と触れる機会が拡大し自己完結的な経験で二次的な音楽体験が溢れている実状がある。このような実状を山田陽一はこう言い表した。

「音楽が生み出された参与的な脈絡から切り離され、音楽が本来もっていたヴァイタリティや意味を剥奪され、人為的に音楽マーケットで流通させられている「製品」なのである」

 その一方で、こうした聴取体験は二次的であり、ライヴ・パフォーマンスは一次的な経験であるとする論に対して、パフォーマンス研究者であるフィリップ・オースランダーが呈した異論を山田は以下のように要約した。

「ロックをふくむポピュラー音楽のほとんどのライヴ・パフォーマンスは、録音を使って音楽を複製しようとする。すなわち、音楽の一次的な経験は、録音されたものに関わっており、ライヴ・パフォーマンスの機能、録音されたサウンドが真正であることを証明することにあるのだ。」

 しかし先にも述べた通り、メディアとライヴとの関係性は限定的ではなく、むしろ流動的であることに加えて、このオースランダーの論の射程はごく一部の音楽に向けられたものではないかと以下の理由から考える。

 まず一つ目に挙げられる理由としては、音楽のジャンルによって担保されるべき真正性が異なる点だ。一つの例として、ポピュラー音楽であるラップ/ヒップホップが「ゲットー」の外でも享受されるようになった後、ゲットーという指標がラップの真正性を保証する場として存在していたことに触れたい。世界初のラップレコーディング楽曲であるシュガーヒルギャングの『Rapper’s Delight』(1979)が発売されて以降、つまり録音メディアを経由した商業的なヒップホップが登場して以降のそのジャンルにおける真正性の形が登場したという面ではロックなどと同様ではあるものの、その対象が演奏の内容ではなく、一つのヒップホップ的な権威ーー地域性への言及やストリートカルチャーへの介入の有無、先達への敬意ーーへの応答にある。

 また、楽器の生演奏とは異なる演奏形態を持つジャンル(ヒップホップ、ダンスミュージックなど)では既に録音されたものをライヴ・パフォーマンスにて再加工するという過程を通して、音楽的空間を盛り立てることに重きが置かれるケースもある。

「ライブハウスとクラブでは場として求められているものが違うのももちろんのことなのだが、コンサート・ライブ的な在り方とは違う形で音楽を楽しむ空間というものを作り上げていく意識は特にこの10年くらいの間に浸透をしていったように思う。(中略 )そこでは、音との関わり方が確実に変化してきている。それは、細切れの音楽を操作することで、音楽が解放されていくメカニズムである。DJであろうが、ミュージシャンであろうが、一般のリスナーであろうが、その音楽を聴くというメカニズムにおいて、すでにバラバラにされた音楽にランダムにアクセスし、自分の聴きたいように組み合わせて再生することが当たり前に行われている、ということである。この事実は実に単純なものだが、聴く者一人一人の意識を決定的に変化させていってしまった。中略 ただ、さらに重要なのは、それらは結果にすぎず、こうなっているプロセスをもう一度、振り返ってみるならば、いまある有り様は、90年代末にピークとなった膨大な情報量の集積とそれを編集する術から還元されたのだということだ。」

 原が上記のように語っている通り、場によって音楽に求められる価値は当然異なり、またそれぞれの場において独特の音楽との関わり合いが形成されているのだ。ロックなどの生演奏されることを基盤とした音楽ジャンルでは、録音物を流通させる以前にライブハウスなどでの演奏によって聴衆に一定以上の支持を得たことを受けて、録音作品を流通させる、といったケースが多数散見される。より幅広い層にとっての一次的な音楽経験としては「メディア化された音楽」が先立つ可能性はあるものの、そうした体験の背景には、既に一定数以上の聴衆にライヴで認められたという担保を備えている場合が多い。

 こうした理由から、「メディア化された音楽」とライヴな音楽経験のどちらか一方を一次的、あるいは二次的と断定することが難しいように思われる。先にも述べた通り、既にメディアが大幅に音楽領域に介入した現代にあっては、どちらか一方に比重を置いた論を敢行するよりもむしろ、それら双方を並置、包摂した論を展開する態度が求められるのではないか。

A-2.3.知覚と身体

 ここまで音楽における身体の在り様について述べてきたが、果たして《身体》とは何か。音楽における身体を考察する上で、非西洋的な音楽との関わりを示したことからも類推されるように、ここでの議論は精神を身体より高い位置に設定した近代哲学や、デカルト的心身二元論とは異なる身体性を提示している。むしろ、サンプラー的に身体を考察する、つまり異なる点と点とを繋ぎ合わせる思考法を持ち込むのであれば、身体は必ずしも有機的な、物質的な存在であるばかりでなく、また精神とは異なるものであるよりもむしろその総体である。そしてまた身体は外界との接続の中で適宜リミックス、再構成されていく。

 少々議論が飛躍しているため少なからずの理論的な補強が必要であるかと思われるのでベンヤミンの引用を用いて議論を展開したい。ベンヤミンが複製技術の登場に伴う芸術の性格の変化を、主に視覚芸術を題材に論じたことを鑑みればこの選択は些かの疑問を生むかもしれない。しかしながら彼は、視覚芸術を題材に、多分に触覚や、複製技術による知覚の変化を論じているのであって、その意味でもまさに非西洋的な身体の解釈を試みんとする本論においてもベンヤミンの引用を用いて身体を解き明かす姿勢に一応の納得は得られるかと思われる。また、これまで聴覚が触覚の拡張である点にも触れてきたことなども踏まえると、触覚を論じることそれ自体が音と身体との関係性をより明瞭化する助力となることが伺えるのではないかと思われる。それでは以下にベンヤミンの引用を参照していきたい。

 「映画は、現代人の生活を旧に倍して包み込んでいる生命の危険に、対応した芸術形式なのだ。それは知覚器官の深刻な変化-この変化を、大都市の車の往来のなかを行くすべての通行人は、私的生活の尺度で体験しているし、今日の社会秩序に反対するすべての戦闘者は、世界史の尺度で体験している-に対応するものなのである。」

 本引用に対して、『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』を著した多木浩はこう述べる。

「ベンヤミンが描いてみせる大都市の雑踏では、視覚的な遠近法は有効さをもたない。われわれはどんな知覚で自分の身の安全を保っているのか?それが「触覚」への知覚の変化の例である。これからたびたび使うことになる「触覚」という知覚は、注意を要する。それは手で触ることを意味していない。それは視覚のように瞬間的なものではなく、また視覚のように明晰でもあり得ない。われわれが考えるに値する「触覚」とは、何度も経験し、固定した決定的な像を認識しないのだ。平面とか三次元とかにあらわすことができない。「触覚」とは時間を含み、多次元であり、何よりも経験であり、かつ再現できないものなのである。」

 ここで多木が述べている内容、つまりベンヤミンの論における「触覚」の解釈の変化は、そのまま音に対しても同様のことが言える。音もまた触覚という知覚同様に、固定されることはなく、二、三次元にあらわすことができず、それでいて時間を含み、多次元であり、経験的であり、かつ身体を通して体験されることから厳密な再現は不可能な存在である。これまでにも音と身体との関係を解き明かすために大々的に援用してきた山田陽一は、音の響きに関して以下のように述べる。

「音の響きは、はかなく刹那的で、「いま、ここに」しか存在しない、何とも曖昧で捉えどころのない、不確かな現象である。これはまた、多義的で多次元的でもあるが、その総体は即時に知覚され、身体において反響する。響きはライヴであり、なまなましく生きている。(中略)人は、響きに包囲され、侵入され、そうして何らかの感情が喚び起こされる響きは、皮膚感覚的であり、内臓感覚的であり、情動的であり、要するに身体的である。」

 このような触覚的知覚が作動した身体は、先の身体の両義性と合わせて考えると、身体の内部と外部の同時発生的な情報を多次元的に受容する媒介であると言える。また、このような媒介する身体のあり方も、それ自体非常に流動的な性質を持っている。「写真を手にした人類の知覚は、「アウラ」なき世界を組織し、知覚はその世界によってまた組織されるのである」 との多木による言及からも読み取れる通り、メディアと身体の関係は一方通行のものではなく、相互に浸透する関係にある。メディアは身体の欲望から生まれるものであるし、身体、ないし触覚的知覚もまたメディアによってその様相を変え、新たに世界を組織するということはつまり、身体は世界を受容するだけでなく、それを内化し続け、個別に、連続的に、かつ無作為に形状を変化させるサンプラー的性質を持っているということだ。

 先に述べた《響き》は言うまでもなく原、渡辺が奇しくも同様に関心を寄せていた《サウンド》 と非常に近しい性質を持っている。上記の山田の引用文からも理解できるように、響きを捉えるには第一に身体感覚、つまり知覚を必要とすると同時に、響きは実に多義的な様相を持つことから西洋的な、テキストとして構造を読み解く作業からは理解し得ない存在である。そしてまた、響きは触覚的な知覚と近しい性質を持つということはつまり、ある意味では「響き」は身体が所与として備え持つ触覚的な知覚の存在を自覚させることに寄与する現象であるとも言える。「響き」それ自体は、複製技術が台頭する以前より当然のことながら存在していたことからも、「響き」それ自体が人の知覚に明確な変化を加える訳ではないことがわかる。しかしそこにある複製技術以降の芸術鑑賞の上で要される態度が加わった時に、「響き」は触覚的知覚が作動していることを気付かせる要因たり得るのだ。その点については次章にて詳しく触れていきたい。

A-3.軽やかな聴取

A-3.1.アンビエントへと至る道

《アンビエント》

 これまでサンプリングを主な鍵語とした上で議論を進めて来た中でこの概念がいかなる関わりを持つか不明瞭に思われるかもしれない。アンビエントとサンプリングとの関係性を論じる必然、それはミュージック・コンクレートにおいてシェフェールが環境音を引用した音響作品を制作した事に由来している訳では無論ない。アンビエントを技巧的側面からではなく、知覚の側面から眼差す事、それがサンプラー的身体への理解を進める強い推進力となる事を期待してアンビエントについて言及するのである。本章にて扱うアンビエントは必ずしもアンビエント・ミュージック全般を意味する訳ではない。ミニマル・ミュージックなどとの連続から生まれたアンビエント・ミュージックは2019年現在では大きく分けて実験音楽の文脈の中に位置するそれと、ヒーリング・ミュージック的テクスチャーを持ったそれとに(極めて乱暴ではあるが)大別される。後者におけるアンビエントは主に自然を指す場合が多く、自然豊かな空間に位置している時のような穏やかさや、自然のせせらぎと触れ合うような体感をイメージしたパッドシンセ音と、情緒的なピアノフレーズなどを用いた楽曲が多く出回っている。しかしながらアンビエントはその名の通り環境を指すのであり、また同時に環境は何も自然のみを対象とする訳ではない。上記のようなアンビエント・ミュージックはむしろ「制御される自然」を無意識の内に想定しているのであって、そういった側面からも本論で扱うアンビエントは後者のような恣意的な自然観に根ざしたアンビエントを基盤に据えたアンビエント・ミュージックを対象とはせず、前者の、芸術音楽、実験音楽の流れを踏襲した上で生まれたアンビエント・ミュージックを対象とする。

 しかしながら即座にアンビエント概念への言及へと移ることはやや性急にも思われると同時に、話の核心である知覚の問題へと遷移するための手続きが必要であるため、手始めに幾つかの事例を紹介しつつ本章における主題へと接続していくことを試みたい。『聴衆の誕生 ポスト・モダン時代の音楽文化』にて渡辺は、以前は「酔狂な「通」でもなければ聴く機会がなかった」 とも思えるグスタフ・マーラーの音楽が本書執筆当時(1989年)の時代では(不思議と)ブームにある傾向に注目すると同時に、当時マーラーを聴いていた人々がかつての通のような聴き方を通してマーラーを楽しんでいるわけではないと指摘した上で、マーラーへの評価の変化はそのまま、聴衆の聴取態度そのものの変化を象徴しているのではないかとの推察を立てた。マーラーが以前はそれこそ酔狂な通好みの音楽であったことは、単純に彼の楽曲は「難曲」が多かったことに加えて、彼が楽譜に残した指示の多くは従来的な西洋芸術音楽の様式の上では「ぶち壊し」とも言えるようなものが多く、それ故に彼の楽曲を(アドルノ的な意味における)「「構造的な聴取」の対象とするには大変な音楽的知識が必要とされる」 ことに由来する。

 事実マーラーは楽曲の頂点部分を意図的に淀みなく(事実彼は楽譜に「よどみなく」と記載している)流れるように仕向けるばかりでなく、主部の回帰という重要な場面にて異様な音響効果をもたらすグリッサンドを挿入するなどといった、従来的な方法論の上では馬鹿げているとすら判断され得る手法を導入している。ここでマーラーの音楽についての考察を深く加えていくことは本論の主軸からは話が逸れることに加えて、彼の作品に焦点を当てるとなればそれこそ膨大な文量を要するのであるからして、マーラー作品についての言及は手短に終えるが、しかし果たしてマーラー自身は彼の楽曲を構造的な聴取の対象とされることを望んでいたのだろうか。渡辺が疑問を投げかけたのはまさにその点についてである。

 彼は構造的に楽曲を聴取されることよりも、異質な断片を楽曲に投げ込み構造に揺さぶりをかけることによって、従来的な芸術的な音楽と向き合う態度とは異なる「脱構築的な聴取」を要求する。それは音列の配置、構造関係から読み解かれる意匠に視線が注がれることを目指すからではなく、むしろ部分それぞれが持つ強烈なイメージ、そして響きを提供することを狙ってのことである。全体的な統一性を放棄し、断片それぞれの音響的な効果を期待したマーラー楽曲は、言うまでもなく統一的な構造関係を信奉する近代へのアンチテーゼであるばかりでなく、来るべき時代の聴取態度を示しているが、その点については後ほど触れるとしよう。

 続いて渡辺は、(一見してマーラーとは対極的にも思える作曲家である)エリック・サティによる『ヴェクサシオン』に焦点を当てる。『ヴェクサシオン』はその名の通り、「嫌がらせ」のような作品であり、1ページのピアノ用の楽譜を840回繰り返し演奏することを指示する。実際に指示通りに演奏すると18時間を超える長丁場となる、一見悪ふざけとも思える本作が演奏されている状況を想像するまでもなく、そこに集中的聴取の余地はないと言える。

 「果てしない繰り返しによって、音楽が作曲家によってつくられた精神的産物であるという性格を急速に失う(中略)要するに音楽は作曲家の表現媒体であることをやめてしまうのである」 と渡辺が述べるように、『ヴェクサシオン』という完結した統一体ではない音楽作品に対して、表現の構造を読み解く、近代的な集中的聴取態度を放棄するが、その時に音は真面目な前傾的聴取態度からは聞こえ来ることのなかった、ないし意識的に知覚から排除していたような「音のきめ」を意識するようになる。 『家具の音』にも続くサティの音楽的実験の意図はまさに音楽に信じられてきた表現や解釈を剥ぎ取ることにあるのである。

 マーラーの楽曲とサティの『ヴェクサシオン』はいかなる関連性を持つのであろうか。両者は共に、旧来的な音楽構造に力点を置いた演出を試みていないことは先にも述べた通りであるが、それと同時に彼らは音を介した現象的側面に注目した制作を試みている点にある。サティの作品は、マーラーの作品、並びにその聴取に見られた現象をより誇張的に、かつ大規模に展開していると言う点から、両者の作品は必ずしも一同一の意図によって生み出されたわけではないと言うことに留意しつつも、渡辺は両者の作品はそれらを聴取する態度の上においての近似性、つまり音楽を作者の精神的産物として見做す前提を放棄した上で、表現性の「重さ」を消し去り、軽やかに聴くことを求める作品であるという点に注目した。そうした新しい聴取の態度の勃興こそがアンビエント・ミュージックへの足がかりであると同時に、その軽やかさこそが本章における主題とも言える脱構築的な知覚への序章となるのだ。

A-3.2.軽やか、そしてくつろぎ

 マーラーファンとマーラーの音楽との付き合い方、並びにサティの作品鑑賞の際に必然的に引き起こされる聴取の態度を渡辺は「軽やかな聴取」と呼ぶ。その言葉は私にある言葉を連想させた。ウォルター・ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』にて示した「気散じ」、「くつろぎ」、ないしくつろいだ鑑賞である。『複製技術時代の芸術作品』はその名の通り複製技術誕生以降、つまりアウラが喪失した時代における芸術を論じた著作であり、そうした技術の登場は人々の鑑賞の態度にも当然ながら変化をもたらした。しかし、「ただし、アウラ的なものが消滅するのは、技術的に複製が可能になることによってだけではありません。ついでにいえば、何よりも、芸術自体の「自律的」な形式法則がみたされることによってです。」 とベンヤミンが語る通り、鑑賞態度の変化は複製の登場のみによって引き起こされるのではなく、複製によって日常に芸術が侵入したことにより、人々の知覚は徐々にではあるが遷移することによって引き起こされる。

 ここでベンヤミンの論を引用する理由は、単に渡辺の論を増強する目的から来るばかりでなく、むしろ渡辺が論じきらなかった時代の多層性との連関にも目を配せつつ、補強するためである。ベンヤミンがくつろぎを提示した際の芸術の対象は主に映画に向けられたものであるが、音楽、並びに音響も多分に複製技術によるパラダイム・シフトを引き起こされているのであり、それは必ずしも音の聴取態度との連関を拒絶するものとは言えない。加えて、ベンヤミンは視覚複製芸術に力点を置いた議論を行ったが、ダダイズムを経由することによって同時に触覚にも接近している。前章にて音の触覚的性質には触れた通りであり、それ故にベンヤミンの議論はまさに西洋芸術音楽的な範疇における音楽の理解を離れた時に音楽にも応用可能になるということを踏まえた上でベンヤミンにおける知覚の問題を掘り下げたい。

 「「触覚」とは時間を含み、多元的であり、何よりも経験であり、かつ再現のできないものなのである」 と多木浩二はベンヤミンの論証を要約するが、山田陽一の「響き」に関する言及、「音の響は、はかなく刹那的で、「いま、ここに」しか存在しない、何とも曖昧で捉えどころのない、不確かな現象である。それはまた、多義的で多次元的でもあるが、その総体は即時に知覚され、身体において反響する」 との言及と何と似通っていることだろうか。まさしくここでの響きは、先にマーラーについての言及にて触れた様に、音列の配置関係や構造的関係に対する前傾的姿勢とは異なる姿勢によって感じられる身体への作用を持つ現象であり、それは身体的な知覚から理解されるものである。

「軽やかな聴取」、「くつろいだ鑑賞」そのどちらも構造や歴史の重さを重視した作品の鑑賞態度とは異なる軽いものであるが、まさしくミラン・クンデラが『存在の耐えられない軽さ』にて述べたように、軽さ、重さの対立はもっともミステリアスであると同時に多義的であり、一概にはどちらが正しいかは言及しづらい。しかしクンデラが「荷物が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、いっそう現実的なものとなり、より真実味を帯びて来る。それに反して重荷がまったく欠けていると、人間は空気より軽くなり、空中に舞い上がり、地面や、地上の存在から遠ざかり、半ば現実感を失い、その動きは自由であると同様に無意味になる」 と記述するように、軽さは無意味性と、現実感、ないし「真実」という幻想からは離れたものであることが理解できる。そうした軽さの認識は言うまでもなく、ベンヤミン、並びに渡辺による軽さを伴った鑑賞態度との連続性が見出せると共に、それまで信じられてきた構造への限界意識や、歴史的な重さを神聖視した権力のディスクールの恣意性への批判意識が読み取れる。

A-3.3.開かれた身体

 複製芸術が登場に伴い、芸術が大衆化し、知覚が変化した結果として軽やかな聴取、その鑑賞の態度が養われた時に初めて我々がこれまで環境を認識する際にある種の統一的な知覚が作用していたことに自覚的になると同時に、この世界の音の無数性に気付かされる。そこではただひたすらに雑音が木霊している。我々は無意識の内に統一的な認識を駆動することによってこの暴力的なまでの音の氾濫と距離を置いていたのである。アンビエント・ミュージックは、まさしくそのような問題意識を取り上げていた。

  次にマックス・ニューハウスの『タイムズスクエア』を一つ例として挙げたい。『タイムズスクエア』は1977年に作成された、ニューハウスを代表する音響インスタレーション作品である。ニューヨークのタイムズスクエア駅の階段に設置されたスピーカーから微弱なドローン音を流し続けるよう設計された本作は、当然ながらその音自体を鑑賞させることを目的としてはいない。ここで渡辺裕による『タイムズスクエア』についての分析を引用する。

「ほとんど意識に上るか登らないかの境目のようなこの音をたまたま耳にとめた人は、じっと聴き入るうちに、やがてこの音を核として、日頃気にもとめていなかった周囲のさまざまな騒音が一つ一つ違った面白さをもった音として、あるときは重なりあるときは離れながら、戯れ合っていることに気づくはずである。つまりこの音響インスタレーションは、(中略)普段は少なくとも鑑賞の対象としては意識しないこれらの音を日常性の中から救い出し、美的体験の相関者に変貌させるための一種の起爆剤なのである。ここでわれわれが鑑賞する対象は、そもそも聴かれるために人為的に出されたのではない街の中の騒音である。ニューハウスの設置した音ももちろん聞こえてくるが、これも当然ながら表現的ではないし、ニューハウスの名前はおろか、音響インスタレーションとして人為的に設置したものだという旨さえ明示されていない。聴き手はこれを統一的な「表現」としては聴きようがないのである。ここでも問題となるのが「軽やかな聴取」であるということに疑いはない。」

 ニューハウスの目論見は本引用からも見て取れる通り、人為的に作られた音が所有していた特権性は芸術が大衆の日常へと持ち込まれた現在は以前同様機能し得ない状況を示唆するばかりでなく、そのような状況下においては人為的な音と自然に生まれた音とに向けられた対象上の区別が排されている状況を描くことにある。加えて、状況に適した聴取の態度、つまり日常世界の音と人為的な音との区分が難しい時代の中で改めて日常的な音への関心を求め、聴く態度を身につけさせることを狙ったものである。

軽やかな聴取を前提とした音響的身体、それが立ち上がった時に何があるのか。その問いへの答えを見出すために、ここでロラン・バルトが『テクストの快楽』にて記したある一節を引用したい。

「ある晩、私は、バーの椅子でうつらうつらしながら、戯れに、耳に入ってくる言語活動を全部数え上げようと試みた。音楽、会話、椅子の音、グラスの音、要するに、立体音響のすべて。(セベロ・サルドゥイが描いた)タンジールの広場が恰好のモデルだ。私の内部での、声が聞こえていた(よくあるように)。《内的》と言われるこの言葉(バロール)は、広場の物音に、外部からやってくる小さな声の連続にとても似ていた。私自身が広場であり、市場(スーク)であった。私のなかを単語や小さな連辞(サンタグラム)や常套句の切れ端が通り過ぎた。そして、いかなる文も形成されなかった。あたかもそれがこの言語活動の法則であるかのように。きわめて文化的であると同時に、きわめて野蛮なこの言葉(バロール)は、とりわけ、語彙的であり、散発的であった。それは、私の中で、一見流れているように見えながら、完全に不連続であった。この非文は、文に到達する力のないもの、文以前にあるものではなくて、永遠に、堂々と、文の外にあるものであった。こうして、潜在的に、言語学全体が崩壊した。文だけを信じ、つねに(論理の、合理性の形式としての)述辞的統辞法に法外な威厳を与えてきた言語学全体が。」

 バルトが「うつらうつらと戯れに」、外界に溢れる音と対峙したこの態度は言うまでもなく実に軽い。そして、そうした軽やかな聴取の中で聞かれる溢れる音、それが内部にて散発的な非文として立ち上がっているとの分析は実に注目に値する。それが何かしら言語的な記号性を伴わないことは、私にブライアン・イーノによるアンビエントのコンセプトの前提、「ディスクリート・ミュージック」にて見せた「オブスキュア」への志向、つまりは不完全性と無名性への志向を連想させるが、やや複雑な議論になり得るため、少しばかりそれら概念への説明を加えたい。

 「ディスクリート(控えめな、目立たない)」は、イーノが後にアンビエント概念を設定する際の出発点となった概念であり、彼は「聴くこともできるが、無視することもできる」音楽を制作するためにこの概念を援用した。 ディスクリート・ミュージックのこの「聞こえなさ」が、周囲の環境への存在を明らかにする機能を持つとの仮説を立てたイーノは、ディスクリートであることをアンビエントの前提として設定した。こうした「か弱い」音への志向はそのまま彼が立ち上げた「オブスキュア(不明瞭な、無名な、朦朧とした)・レーベル」の名称にも見て撮ることができる。イーノのこのアンビエント概念は容易にジョン・ケージの沈黙との接続を連想させるが、椹木野衣はケージとイーノとでは明確に異なる点があると述べる。

「ケージが沈黙を重視したのに対して、イーノはいわば「不完全な沈黙」を重視し、この不完全性、無名性こそがその周囲の環境への注意を喚起させるのだとしているからだ。イーノにあっては、この不完全性は、片方しか音のでないスピーカーに代表されるような「オブスキュア」な現象によってこそ可能となる。この感覚は、音楽的な訓練を必ずしも受けていない「無名な人々によって演奏されたクラシック・ナンバーを集めたポーツマス・シンフォニアによるアルバム「プレイ・ザ・ポピュラー・クラシック」にも顕著に現れている」

 イーノによるアンビエント観念は本人も語る通りクライマックスへと至らない連続性を基に築き上げられた。クライマックスとはまさしく物語的な意味での連続性、つまりは前後関係が構造として機能することを前提としている。クライマックス性の放棄は、マーラーが楽曲の頂点部分において淀みなく演奏を指示したこととも大いに接続されるスタンスである。

これまでにも述べてきたように、我々は複製によって知覚の変化を示唆されると共に、芸術が日常化したことによってそうした変化を日常的に経験している。バルトが経験したような経験、広場に音響的身体を委ね、広場と同期する身体が立ち上がった時に見出される(言語的)記号性を伴わない音の不連続的総体が形成される現象を建築同様日常的に経験(を自覚)する機会はある。それはサンプラーがあらゆる音の文脈を剥ぎ取り、それらの歴史性などにウイルスのように侵入し、配列を無作為に組み替える作業によって形作られる音楽と同様の状態をイメージさせる。この時の広場と同期したバルトの身体は、サンプラーと化していたと言える。

 環境に響く音と対峙した身体の状況を考察することから分かる通り、旧来的に身体に抱かれた単一のイメージはそこでは薄れ、身体は個別的であると同時に切り開かれた社会的な存在としてのアンビバレンスを備えているばかりか、それ自体は体系的な思考からは理解され切らなかった世界の様相を知覚する非文的思考体であるという事実を映し出す。サンプラー的な身体の状況は普遍的であると同時に、誠実な時代認識を前提とするのであればより一層アクチュアルな身体状況として理解できる。サンプラー的身体において身体は常に他者性(ここでの他者とは人のみを表さない)を包含した存在であり、そういった意味でも従来的なオリジナリティへの幻想とは明確に異なった立場からの理論であることは言うまでもない。

A-4. 溶ける踊り

「リズム、複数のリズム。それらは現れたり、隠れたりする。音楽やいわゆる世の中の出来事の連なりのコードよりももっと多様で、都市そのものからすれば簡単なテクストに見える。リズム、それは都市の音楽であり、それ自体に聴き入っている絵画であり、不連続こそ総和としての現在のイメージだ。」

 アンリ・ルフェーヴルによる上記の言及はコード化、ないし構造化された音と比較して、非連続的に音が鳴り響く都市のリズムに対しての誠実な描写であり、先の『タイムズスクエア』の分析との近似性が見出せる内容であると言える。

 次なる概念はリズムだ。身体、アンビエントに続く概念としてのリズムではあるが、事実これまでの手続き無くしてリズムをサンプリングに接続することは極めて難しい。しかしながら考えても見て欲しい。サンプリングについての名著とも言える『リズム・サイエンス』には何故リズムという言葉が冠されているのか。そしてまた、サンプリングを大々的に取り入れた音楽表現ーー テクノ、ハウス、ヒップホップ ーーにおけるリズムの重要性を。リズムは事実知覚によって理解される概念であるばかりでなく、リズムに対する精緻な分析を経た時にリズムがいかにサンプリングと親和性の高い概念であるかが分かるであろう。

A-4.1.揺らめく現象としてのリズム

 さて、第一に進めるべきは、リズムという語に関する可能な限りの具体化である。(音楽の範囲に限定されない)リズムを論ずるにあたって、リズムは拍子といった(時として混同され得る)語とは明確に峻別する必要がある。差し当たっては、リズムに関しての先行研究としてのジゼール・ブルレの論を援用し、リズムに対する理解を深めていく。ブルレはリズムという非常に曖昧模糊とした概念に対しての理解を積極的に行ったと同時に、その論は彼女が実際に演奏もしていたクラシック音楽に関する論に留まらず、現行の DJカルチャーにおけるリズムともまた相関性を持つ点に注目した上で彼女のリズム論に触れていきたい。

 ブルレのリズム論は、『リズムの本質』を著したクラーゲス同様、リズムと拍子は異なるものであり、またリズムと拍子とは対立していながら両者は結合する可能性を持つという見解を示しているという点で相関性が見られる。しかしながらブルレのリズム解釈がクラーゲスのそれとは異なる点として、ブルレ研究を行っている山下は以下のように述べる。「クラーゲスにおいてリズムと拍子は、まずそれぞれ異なった概念として区別され、外在的にかかわり合うことで高次のリズムを目指すことができた。他方ブルレにおいては、リズムと拍子は外的に区別されるものではなく、リズムの一部として拍子は存在している。リズムと拍子はどちらとも、リズムとしてまさしく同時に発生してくるし、そこに見て取ることができるのは、リズムと拍子との根本的なつながりであろう。」

 そうした前提のもと展開されるブルレの論においてリズムは、「枠組みを自由に更新する動きと、それとは逆に、固定した形式におさまろうとする動きが同時にあらわれるという矛盾」 を抱えていると山下は述べる。拍子という厳格な運動とリズムという自由な運動の同時並行的な存在が形作る真のリズムは、「枠組みの規定と破壊」とを同時に行い、似たものを回帰させる。

 ここで語られている「似たものの回帰」は容易にDJカルチャーに関するテクストーー『リズム・サイエンス』、『DJカルチャーの思想史』、『アーバン・トライバル・スタディーズ』ーーにて用いられる「変わりゆく同じもの(チェンジングセイム)」的概念と非常に近接したものであると言えるのではないか。そしてまた、上記のリズムに関する論でのリズムの射程は言わずもがな音楽的なリズムに限定されない。クラーゲス、並びにブルレの双方が自然的(生命的)リズムについて言及している(あるいはリズムの理解の土台として上記概念を用いている)ことからも、その射程を音楽に限定することはむしろ些か乱暴に映る。

 また、クラーゲスはリズムを事実の世界に属さない、現象の世界に属するものであると述べている点にも注目したい。「リズムが現象の世界に属するとすれば、それは事物(Ding)の世界に属さないということである。現象の世界に関する学問は現象学であり、事物の世界に関する学問は事実の学、あるいは原因の学である。事物として捉えるとき、私の描き机はつねに同一物であり、しかも、異なる時におけるわたしにとっても、任意の数の他の人びとのおのおのにとっても、同一物である。それにたいして、机の現象はたえず変化する。わたしがそれを知覚する方向、距離、照明具合によって変化する。わたし自身の状態によってすら変化し、すこぶる爽快なときと、へとへとに疲れきっているときとでは見えかたが異なる。けっきょく、二人の異なる人物にとって正確におなじ現象はけっしてない。二人の人物が質的に同一の印象を受けることは考えられないからである。」

 これまでにも音楽と対峙する上での「身体」を重要視してきたが、まさしくリズムもやはり身体によって知覚され、それ故に時間や身体の状況などによって個別に変容する性質を備えている概念であり、これまで扱ってきたキーワードとの接続を想定させるだけでなく、拍子と峻別されるリズムの脱構築性は、サンプリングという行為が示す単線的な歴史記述に対する恣意的な介入、操作(パラレルワールドの創出、オルタナティブな解釈の創出)をする際の、「既存のフレームワークへのハッキング的特性」をより具体化させるためのファクターとして用いられるのではないか。

A-4.2.分子化する群衆

 「踊ることは、音楽することの重要な一部であり、音楽の身体的実践にほかならない。人は音楽に接したとき、なぜ自分の身体が動きはじめるのか、なぜ踊りはじめるのか、おそらく意識することはない。人は、音楽に導かれるようにして、ただ踊る。だが、そこにこそ、踊る身体の秘密はあるのだ」 と山田陽一が述べるように、音楽を身体的に理解する際に踊りと音楽とは分かち難い関係性を持つ。音楽、そしてリズムという現象が身体に届くとき、我々はいかなる情動を抱き、そして反応するであろうか。ここではパーティやレイヴでの実際の様子と、本人の体感などもふんだんに交え議論を進めている『アーバン・トライバル・スタディーズ』を参照した上で考えていきたい。

「レイヴのあり方に関して、ドゥルーズ&ガタリが使った「モル的/分子的」という対立区分を比喩として参照することができる。モル的な状態とは全てが一つに溶かし込まれ、まるごと全体としてまとまった状態のことであり、そこでは個々の要素の差異は無視されるか消去されている。分子的な状態とは、これに対して、一つの総体にまとまっているように見えながら、個々が特異な運動を無限に繰り返しており、また他のものとの切断や再結合を多様に繰り返している状態のことを指している。パーティの熱狂のもつ一体性は、この二分法で理解することができる。よいパーティは「分子的な状態」を実現する。しかし、うまく行かない場合には、それは「モル的な状態」でしかないこともありうる。空間(場所や風景やハコ)、主催者、DJ、参加者・・・といった多様な変数によってパーティの条件と状況もまた無限に変化する。」

「パーティにおける群衆(クラウド)が感じとる集団的な一体感については多く指摘されているところだが、マルボンはそれをフロイトが精神分析の概念の一つとして開示した「大洋的な感情」になぞらえている。(中略)人が海で漂う時に感じるような世界や自然との一体感や共生感覚を、パーティのクラウドは体験することがある。マルボンはこの「大洋的な経験(oceanic experience)を「脱自=恍惚の体験(ecstatic experience)」と並行して語っている。」

 ここで上野が述べているように、人は音楽を経由した踊りの中で群衆と連動しながらも、完全には同一化されない存在として運動を繰り返す。また、本引用文が記載されている章の名称が「ディオニュソス・グラフィティ」であることからも、上野がニーチェのディオニュソス的状態(陶酔的、非造形的、忘我的状態)を念頭に置いた上で議論を進めていることが分かる。踊るという体験は身体同様個人的であり、非人称的でもあるが、その両義性故に実に捉えがたい身体的行為であるように思う。上記の大洋的な経験は、音楽とそれを身体化する踊りを通してのみ経験されると上野は語る。大洋的な経験の中で人は自我を超越し、身体の輪郭を越え、通常の意味における自己、時間、空間の限定性から逸脱する。

 しかしこのような経験をするには、言わずもがなリズムを捉える作業が必要になる。リズムをつかむ時、人はリズムに身を委ねる必要があるとルフェーヴルが述べるが、山田陽一はルフェーヴルの発言をこのように分析する。

「人は、持続するリズムにたいして、それが進むがままにし、そこにみずからを託し、委ねなければならない。リズムにつかまれるということは、リズムの流れに身をあずけ、体に反響する律動と同胞し、それを実感するということだ。つまりリズムが身体をつかみ、それを揺らし、そうやって身体がリズムそのものとなる。このいわば「リズム的身体」こそが、踊る身体の重要な一面である。リズムが時間のなかでくり広げられ、空間に拡散してそこに存在するものを躍動させるように、リズム的身体も時間の流れと空間の広がりのうちにある。それは、流れゆくリズムとしての身体であり、世界へと広がる身体としてのリズムである。」

 本引用からも見て取れる通り、リズムを捉えるべくしてリズムに身を委ねた時、身体は音のみならず世界にも接続する概念へと変容する。このような考察は先にも挙げた大洋的な経験と非常に近しい問題を取り扱っているように思われる。しかしそのような体感、感覚を考察、解釈することは、これらの特異な体感、経験を簡単に一般化し、常識的に理解することにも繋がり得ると上野は指摘している。

「パーティやレイヴ、クラブについて分析する研究者が踊ること(ダンス)にこだわる理由は、言葉と言葉にならないもの、言語と非言語の対立のなかで、ダンスが言説の対極にあるものと見られているからである。つまり、形而上学的な思考からも、実証主義の手続きからもダンスの快楽は、なかなか把握できないものとして考えられてきた。」

「さらに彼らは、ダンスと切っても切れない音楽もまた、言語とは異なる意味作用をもっており、言説の反対側にあるものとして位置付けている。つまり、音楽は言葉と同様に意味を生産することができる一方で、他方では言葉によっては説明できない情動を生みだす。音楽はわれわれにはたらきかける/われわれの情動をかきたてる(affect)が、それは頭で理解することや言葉で説明するのとは異なった回路でなされている。」
※彼らはパーティやレイヴ、クラブについて分析する研究者達、ここではジェレミー・ギルバートとイワン・ピアソンを指す。

 上記引用からも分かる通り、踊るという行為は言語とは異なる意味作用を持つ。しかし音楽が構造的にも理解されるのと同様に、踊ることは必ずしも思考を排除するとは言えない、人間のアンビバレンスをそのまま表しているかのような行為であると言える。そのようなアンビバレントな様相が持ち込まれるレイヴやパーティは、先の分子化と合わせて鑑みるに、個々人が自由に踊り、それでいて個々人が他者と接続しながらも内外に大いなる海に開かれたようなとてつもないスケール感を持った現象と言える。

A-4.3. 繋ぎ合わせる踊り

「パーティやクラブ文化にとって、(音源や諸文化を)つなぐことやミックスすることは、音楽的にもサブカルチャー的な身ぶりにとっても本質的な契機である。「つなぐこと」はここでもサンプリングやミキシング、イコライジングなどの技術的条件に支えられている。そこでつながれるのは、情報であり、人間であり、音であり、様々な儀礼慣習(リチュアル)にほかならない。言い換えれば、「祝祭=祭り」としてのパーティは垂直の次元から(超越論的に)普段の日常性に介入したり、これを変容させる超越(論)としてのトランスであるだけではなくて、様々な文脈や地平や空間を横断し、節合させるトランスでもある。(中略)このような横断的な断絶と接続から普段の日常性を見なおし、変容していく、というかぎりで、この「つなぐこと」の運動は日常に対する超越論的な批判や介入にもなりうる。DJやオーガナイザーはまさに媒介者、触媒、情報をつなぐ「編集者」である。」

 上野がこう語るように、そしてこれまで身体やアンビエントなどにも触れてきた内容にて語ってきたように、我々は外界のありとあらゆるものを繋ぎ合わせる性質を持つ。上記内容からは繋ぐ行為はDJ、オーガナイザーに固有の行為であるかのように記されているが、上野はまた、「リズムは複数であるし、それを生きる身体も決して一つではない。むしろ、複数のリズムのただなかに参入する個別の身体たちからは、それとは別のもう一つの身体が作られるのである(ちょうどパーティで、あるいはフットボールのスタジアムで、「大きな身体」が夢想され、体験されるように。それは特異性の束であっても、包括的、全体的な身体ではない)」 とも述べている。これまで身体や、アンビエントなどの概念を用いることによって、脱構造的な知覚の作動条件について触れてきたが、リズム、そして踊りを経由することで人は異なる領域や空間、時間と接続され、新たなる身体を立ち上げるのである。身体論、アンビエントの概念は言わば認識されることのなかった世界の多層性を「受動」する上での知覚の変容に焦点が当てられていたが、リズムに呼応し、踊るという行為によって新たなる自己を立ち上げ、かつ世界に開かれた存在へと変容することは能動的な行為であり、その両軸が兼ね備えられることによって我々はサンプラー的身体への道のりを確かなものにするのだ。

A-5. サンプラー的身体

 アウラはとうに消え去った。これまでに論じてきたことの中核は、複製技術の登場に伴い引き起こされた西洋的な構造主義からの脱却、そしてそれ以降の時代における芸術がもたらす知覚の変化についてである。他者をトレースする、インストールする、サンプリングする、そういった行為はポピュラーミュージックにおいては然程物珍しい行為ではないばかりか、むしろ日常的営為ですらある。『アメリカ音楽史』において大和田俊之が述べた通り、ポピュラーミュージックは「擬装」、つまりは他者になりすますという行為と共に発展してきた。しかしメディアの発信の方向性によってか、あるいはこれまでにも述べてきた前時代的な芸術家への期待、つまり神聖性や固有性を担保した存在としての芸術家像を聴衆が投影した結果か、音楽家に限らないアーティストは過剰なまでのアイデンティティを望まれたのである。

 オリジナルとは何か。アイデンティティとは何か。そうした問いは時代を問わず世間に無造作に放り込まれてきた。しかし大胆に言えばサンプリングの前にはそうした問いは何の益も為し得ない。DJカルチャーはそういった意味において、非常に示唆的であるばかりでなく、未だ認識によって支配された人間の知覚に対する疑問符を叩きつける。これまで述べてきた内容は必ずしもDJカルチャーとは縁のある内容ばかりではなかった。だがここまで述べてきた内容が少なからずDJカルチャーと同心円状にある問題意識を持っていると言っていいであろう。最終章となる本章では、それらの内容を踏まえた上で、ヒップホップカルチャーに位置するDJ、アーティストなどの実際の取り組みに焦点を当て、改めて《サンプラー的身体》とは何かを問いかけることを目的とする。

A-5.1.円環するサウンド

 1974年に生まれたJ・ディラことジェイムズ・ヤンシーは2009年、悲劇の死を遂げる三日前にリリースされた『Donuts』が放つ輝きと共に今尚多くのアーティストのリスペクトを受けている。「ニュアンスしかない音楽は美しい。(中略) そして、それらの音を紹介しようとするときに、言葉との乖離に気がつくことになったのだ。その音の何が如何に優れたものなのかを明確に言い表すことができる言葉が見つからないのである。」 と原が「サウンド」に重きを置いた音楽を評したが、彼はとりわけディラの作品の分析に取り憑かれてきたかのようにことあるごとに彼の諸作を「サウンド」的音楽の代表例として取り扱っているし、上記の言葉はディラの作品を読み解く際にも有効な見解であるように思える。『Donuts』は、リリースされてから早13年が経つ今も尚色褪せない強靭な個性を持つばかりか、現代にも機能する示唆的な問題意識を孕んだ作品である。彼のプロダクションにおける最大の個性の一つである「よれたビート」に多くのリスナーに留まらずプレイヤーも強く魅了された。彼のソウルクエリアンズでの活動や、現代ジャズの中心人物であるロバート・グラスパーによる数々のカバーなどの影響もあり、その傾向は一層強まっているように感じられる。

 しかしビートの質感はあくまでディラの表現の一側面でしかないと言える。真に重要なのは何故彼がそのようなビートを作ることを志したのかを分析することにある。ディラに特有のこの「よれ」は DAWによるクオンタイズを機能させなかったことに由来すると言う事実は既に多く語られている通りであり、今になって殊更この事実を説明する必要はないかと思われる。むしろクオンタイズを使用しなかったと言う事実、それは何を意図しての選択であったと言えるであろうか。このことを分析するにあたって、少々回りくどいかとは思われるがディラのビートメイキング以外の活動にも目を向けて見たいと思う。

 ディラはビートメイカーの歴史や、そのカルチャー内部にある暗黙のルールについて自覚的であり、踏襲的である面も備えつつ、常にそうしたルールから脱却すること、それ自体にヒップホップの固有性を見出していたと同時に実践していたアーティストであると言える。彼のそういったメンタリティは、ビートメイカーとしてのそれに留まらず、ラッパーとして活動していたスラム・ヴィレッジでの作詞方法にも見て取れる。「スラム・ヴィレッジにとっては、スウィングがすべてだった。もし言葉がフィットしないのであれば、フィットするように変化させればいいのだ。このアルバムを通して登場する4つの“ファンタスティックな”インタールードを聴いてみると、このトリオのリリックのほとんどが完全な文章を成していないことが分かる。小節を埋める「エイヨー」のようなフレーズや舌打ちの音に頼りながら、リリックの一貫性に重点が置かれることは決してなかったのだ。その代わり、彼らの声こそが、もうひとつのパーカッシヴな楽器となる。」  J dillaとスラム・ヴィレッジのメンバーは思考によって言葉を紡ぐのではなく、音が響くその瞬間の連続に感応することで言葉をフロウさせた。彼はサウンドと対峙し、リズムに身を委ねた時に湧き上がる自分の身体の要求に応えることに重きを置いていたアーティストであると言える。

 ヒップホップは、プロダクションにおける自由度とは裏腹に、非常に強固なルール性をもつ。どのような素材をサンプリングするか、それらをどのように扱うか、そして作り上げられたトラックの上でいかに、何をラップするのか。そのような基準に基づいた暗黙のルールに悖る態度が見られれば即座に他のアーティストのディスを受けることとなるヒップホップというジャンルは、その雑食性や自由度の高いフォーマットに反してかなり外的な価値基準に左右される形で発展し、それ故に多くの誤解を招いてきたジャンルであると言える。私が本論においてヒップホップに力点を置きすぎることに対して過剰なまでに危機意識を感じた故に、一見して遠回りとも思えるほどに婉曲的にサンプリングを援用するような理論を積み重ねてきたのはこうした背景的理由によるところが大きい。事実サンプリングの広範な普及を語る上でヒップホップは避けて通れないジャンルではあるが、ヒップホップが社会的価値や役割を付与されたことにより、サンプリングまでもが社会文脈的理論によって補強されることを恐れたためである。

 そしてまた、ディラも私と近しい見解を有していたのではないかと誠に勝手ながら感じる側面がある。ヒップホップにおけるラップが世界に黒人の生活の実情を伝える有効な手段足り得ることが理解されて以降、ラップに社会や環境、育ちなどを落とし込むことが重要視されるようになった。ディラがラッパーとしては大成しなかったのは、彼のメッセージよりもフロウを重要視する作詞方法によるところが大きい。ディラのこの「メッセージよりもフロウ」に重きを置く制作スタイルを、ジョーダン・ファーガソンは以下のように言い表した。

「では、《Donuts》のサウンドのソースとして「見える」ものは何だろう。それらはイメージやいろ、そして雰囲気のコラージュとして心の中にちらつくものだ。それはミュージック・コンクレートとしてのヒップホップだ。全てのサンプリングソースを知っているからといって、頭の中でそのサウンドをより理解できるようになるわけではない。そのリスニング体験を不条理なホラー映画のようにしてしまうだけだ。」  

 ヒップホップのプロダクションにおいて活用されたサンプリングというメソッドは、あらゆる自由を取り払う、無限の分裂可能性を持つものであったが、そのクリエイティビティを止める可能性があるのは常に参与者(制作者、受容者)の態度に他ならない。サウンドは何よりも雄弁に物語る。物語られるものは言語的に回収されるものもあればそうでない場合もあるが、確かにそれは何かしらの意味で闘争の痕跡を記している。我々はディラ自身のインタビューや、言葉からではなく、やはり第一にディラの音楽そのものと対峙し、その上で彼の作品の意図を体感すべきである。

 ディラは繰り返し自身の制作のスタイルを更新しては放棄してきた。ヒップホップという自由度の高いジャンルに身を置いておきながら、あるいはヒップホップという知識を前提としないジャンルに身を置くからこそ意識的に自分が音楽的に訓練された土俵に安住することを拒絶し続けた。暗黙の内に形成されるコミュニティの倫理と無意識の内に立ち上がる統一的認識が混ざり合った時、自分が硬直的な価値創造という今やカビの生えたかのような古き因習を支えることに与する可能性に過剰すぎるまでに意識的であったのだ。一つのサンプルから無限のリミックスの可能性を持つ何とも軽やかな手法に、手垢のついた忌むべき思考の癖が侵入すること、そしてそれによってサンプリングというアートフォームの可能性のレンジを自ら縮めてしまうことは、ヒップホップというジャンルを愛し、愛するが故に表裏一体の嫌悪感を抱いてきたディラにとっては許しがたい行為であろう。ディラは音楽家として、社会的な役割や機能といった外在的価値に従うのではなく、あくまで彼自身の身体がサウンドと対峙する際の感覚に従うことを重視した。

 『Donuts』は彼のこのような思想の痕跡が見て取れる。矢継ぎ早に楽曲は移り変わり、幾多のサンプルは周期性を持たず突如放り込まれる。周期性を持たない、つまり反復されないことによってそれらのサンプルは脳裏に明晰に固定されることなく、ただ浮遊する。彼の作品は合理性や構造的な理解の範疇を超えでた、ヒップホップのサウンド的地平をを雄弁に物語っているように思える。『Donuts』は、全てを合理性の元に還元するような思想とは相容れない。そこにはニュアンスしか存在しない。『Donuts』、そして『Donuts』に至るまでのディラのプロセスを通して、我々は意味論とは遠くに位置するサウンドと身体との関係への自覚させられる。

A-5.2.共同化する個人

 カニエ・ウェストの『Yeezus』は2013年にリリースされた。『Yeezus』はカニエが関連する数多の作品の中でも一際強い実験精神を伴った作品であると評されている。ル・コルビュジェの建築にインスピレーションを得たカニエは、実にミニマルなアートワークと、そうしたミニマルさ故のソリッドさを感じさせる音楽作品を制作するに至った。しかしそのような背景とコンセプトとは裏腹に、本作に関わる人物は非常に多い。一曲に複数のプロデューサー(多いときは8人にも登る)と、複数の作曲者(多いときは13人にも登る)を連れ制作された本作は、少なくともそのプロダクションチームの編成に限って見るとあまりにも独特かつミニマルさは見る影もないようにすら思える。

 アルカやダフト・パンクなどといったエレクトロニック・ミュージシャンを招聘したことからも分かる通り、本作においてカニエは冷たいシンセサイザーのサウンドと、無機質なエレクトロニックビートを大々的に取り入れた。また、劣悪な環境下で楽曲制作を行なっていたことも影響して、音を飽和させるのではなく、可能な限り削ぐ必要があったと彼は言う。 確かに基盤となるビートそれ自体はソリッドかつミニマルであり、そういった意味でコルビュジェによる影響は少なからず感じられるが、それと同時に乱雑にサンプルが挿入されることにより引き起こされる、混乱を招くような楽曲展開やビートチェンジもしばしば見られる。まるでモダニズム建築の写真を眺めていたら突如スライドが切り替わり、まるで関連性の見出せない写真を提示されるかのように。

 また、『Yeezus』のプロデューサーとしても参加していたトラヴィス・スコットが2018年にリリースした『Astroworld』も『Yeezus』同様のチーム編成を試みている。多い時には一曲に7人ものプロデューサーと、30人もの作曲者を擁して『Astroworld』は制作された。『Astroworld』のタイトルは、トラヴィスの出身地であるヒューストンにかつて存在した遊園地であるsix flags astroworldから来ている。このようなネーミングからも理解できるように、本作にてトラヴィスは育った街に対する郷愁を覗かせ、また地元に対する気配りを見せることによってヒップホップ界隈におけるルーツ志向を持つ者からの賛辞を受けた。しかし実際にアルバムにクレジットされたアーティストのラインナップを見れば集った面々が必ずしもトラヴィスのルーツに所縁のある人物ばかりでないことは一目瞭然である。

 それでは何故トラヴィスは本作のタイトルにこのようなルーツ性を感じさせる名称を冠したのか。その疑問を解き明かす上で、アストロワールドはかつて実在した場所でありつつも、現在は取り壊された場所でもあるという事実が重要になってくるかと思われる。トラヴィスにとって、そしてヒューストンにルーツを持つ者にとってアストロワールドは既に過去の産物であり、アストロワールドに関する体験はすべて記憶の中にしか存在しないと共に、それは更新されることはない。記憶が一定性を持たず、風化し、悪戯に突如脳裏をよぎり、無意味に他所の記憶や現在と結びつく性質を持つことに意識的であるからこそ、トラヴィスは「彼自身のアストロワールド」を辿る旅に自分とルーツを共にする者と、そうでない者を恣意的に分別することなく連れ添った可能性が考慮される。そしてまた『Astroworld』はトラヴィスのルーツを再構成する旅であると同時に、現在形のアストロワールドを構成する旅でもある。遊園地が雑多なアトラクションやフードカウンターなどの総体として成されるように、トラヴィスもまた「彼自身のアストロワールド」を構築する上で雑多に、かつ彼がエンターテイニングだと思える「乗り物」を選んだと言える。

 また、本作では先のカニエの例にも挙げた急激なビートチェンジも同様に持ち込まれ、制作チームのみならずその楽曲構成に到るまで『Yeezus』との類似点が見られる。トラヴィスの『sicko mode』に見られる急激なビートチェンジ、加えてそれが連続するだけでなく、それまでの流れを急遽断絶する手法は、カニエだけに留まらず、Oneohtrix Point Neverの『the station』(2018)の特徴とも言える、歌唱を中心とした楽曲構造の認識が立ち上がる瞬間に狙いを定めたノイズの挿入とそれに伴う構造破壊との類似性も見いだせることから、そのような手法にはやはり何かしら時代への応答が潜在しているように思われる。

 話はやや逸れるが、ケンドリック・ラマーの初期作品『A.D.H.D.』にて80年代生まれを象徴する病理として挙げられた多動性欠陥障害に見られる、非合理的、かつ分裂的な精神状況とそれに伴う無思考的な快楽主義がある種日常性を物語っているとするのであれば、そうした状況に対する精緻な眼差しの結実として『sicko mode』、『the station』における場面の急遽な展開は示しているように思える。『sicko mode』はこれまでにもケンドリック自身が提示してきたようなビートチェンジとは明確に異なりーーむしろケンドリックはサンプリングの文脈性に力点を置き、かつ自身の身体に多様なアイデンティティをインストール(人格のサンプリング)を用いたストーリーテリングを武器としているのに対してーーむしろ連続性を前提とした物語性を拒否するかのように、始まりつつあるラップを急遽差し押さえ、全く関連性を想起させないビートへと接続する。

 彼が繋ぎ合わせる点と点、それは何かしらの接続の必然性を見出せるものではなく、接続の対象は彼自身の感性、欲望に裏付けられると共に、接続と分断の連続の上を軽やかに、縦横無尽に飛び跳ねるのがトラヴィスの武器とするところである。言うまでもなく彼の楽曲は彼自身の欲望、つまり個人性に裏打ちされているという点において再現性や、論理的証明を嫌った性格を持つ。しかし個人性を前提とした表現でありながら、彼は作曲者、並びに作詞家を多数雇い入れることで『sicko mode』を構成する。それは前提としての他者性の介在を意味するのであり、すなわち高度にネットが発達し、生活のあらゆるところに他者が発現する状況、ないし孤独な状況を確保することの難しい時代にあってより強調的に意識される他者の存在を前提としている。今やロマン主義的な自分語りは時代遅れであるばかりでなく、実際的な話ではないと共に、現実世界を描く作品としてはやや非現実的な様相を示してしまう危険性を伴う。

 カニエやトラヴィスの試みは、ただ単に奇抜な、突拍子もない表現を試みただけでは当然ながらない。彼らはケンドリックが(ストーリーテラーとして複数の人格の意識をインストールした上でラップする表現の中で)試みたような複数意識の同時的脈動を大胆にも世界の知覚のレベルにまで反映させていると言えるのではなかろうか。世界は常に同時多発的に動き、それと同時に不条理な、整合性のない働きを持つ。そのような世界の実態の認識はADHD的な他動的性質と結びついた結果、このような分裂的で、かつ物語を構築し得ない状況を精緻に描いた楽曲の制作に彼らは身を乗り出したと言える。

A-5.3.全ての音

「DJの心の中では深い意味での断片化が生じる。ぼくがDJするようになったとき、ぼくを取り巻くものーー先進国の資本主義を地盤にしたメディアの濃密なスペクトルーーは、ぼくの憧れや欲望の非常に多くをすでにぼくのために築いてしまっているみたいに思えた。つまり、ぼくは自分の神経が映像やサウンドや他の人々といった全てに拡張されているような気分がしたーーぼくがそれらの延長であるように、これらみんなが自分の延長だというような。列車、飛行機、自動車、人々、多国籍企業、モニター・スクリーンーー大きいものと小さいもの、人間と人間でないものーーこれら全てが、区分化された瞬間と不連続な目に見えない相互作用の世界に置いて、時間と空間が切れ目なくつながる収束状態を表している。」

 これまでにも述べた通り、メディアと身体とは相互に往来する関係を持っており、我々は身体にサンプラー的な機能を有している側面が見て取れる。音声を収奪するサンプラーとは異なり、サンプラーと化した身体の収奪の射程は幅広く、音響、会話、身体性、意識などにまで至る。個人は実際には単一の存在ではなく、常に外界への官能に左右され、その様相を流動的に変遷させている。ネットと身体との明確な区分なき現代にあっては、その傾向はより明白に理解されるであろう。異なるSNSにて異なるアバターを所有し駆動する諸相からはそのような状況を分かりやすく映し出している。ポール・D・ミラーはこう語る。

「フロウ(流れ)。他の機会を説明する機械、他のテクストを飲みこむテクスト、他の身体を飲みこむ身体。どんな音だってきみでありうる、きみが吐くどんなコトバもすでに知られているという、カニヴァリズム的状況だ。」

 どんな音でも自分であり得るという状況が誰にも例外なく適応されているとするのであれば、そこにかつての前衛の形は存在しない。しかしながら旧来的なオリジナリティへの幻想なき現状に対して悲観的である必要はない。我々はデジャヴュとしてのイメージを用いて音楽を制作するが、それらを組み合わせたタペストリーはいつでもオリジナルなものになり得る。組み合わせの数は無限にある。それらを溶け込ませた内側に響く音は、近似性こそ見出せるものの、同一のものは確実に存在しない。異なる地点間の距離は移動メディアによって短縮されたが、サンプラーによってあらゆる地点間のみならず時空間の距離すら抹消された。我々は今ここから、世界に偏在する全てにアクセスすることが出来ると共に、我々は世界に偏在する逆説の中を生きている。

 サンプラー的機能は身体に所与のものとして備わっているが、それはアプリオリに認識されているわけではない、アポステリオリな知覚なのだ。今尚ポスト・モダンの落とす影が残る世にあっては、その知覚機能への自覚が何よりも前提となる。事実複製技術の登場によって我々を取り巻く状況は大きく変わったし、メディア・テクノロジーとの結びつきがより強固となった現代にあっては尚のこと身体の単一性という幻想は機能し得なくなっていることからも、そうした自覚を芽生えさせるトリガーは無数に世界に偏在していると言える。

「基本的なアイディアは、デジタルを用い内部と外部の架け橋を作ろうってことだ。ヒップホップやエレクトロニカのような音楽は劇場(シアター)だ。(中略)テクノロジーは集団幻覚だ。きっとぼくらの先祖なら神がかりだと思っただろうやり方で、僕らは自分のヴィジョンやアイディアを送ることができる。神話とコードは同じコインの表裏にすぎない。人はどんどん技術的なものになってきているけれど、その根底にあるのは、僕らが毎日をいかに生き、呼吸し、考えるかっていうことなんだ。」

 非合理的なものを合理的に解釈することの危険性を前提とした議論を進めてきた。サンプリングカルチャーを理性的営為の範疇に回収することは事実可能であるが、可能であることが必ずしも正確さと結びつくわけではない。世界、あるいは事実はいつでも同時複数的な現象が折り重なることによって形作られると共に、その中にある現象の全てを合理的に回収することが可能であるわけではない。無論サンプリングは意味論的に分析することも可能であるばかりでなく、そのような方法論と認識し、実践を行なってきたアーティストも多数いることから、意味を放棄した表現手法であると断定することは難しい。だが常に解釈可能であることばかりが価値を持つわけではない。解釈可能であることによってそれを体系的に分析することが可能となり、解釈の外側にあるものよりも再現性のある思考として共有されやすいのは間違いないが、先にも述べた通り合理的な解釈ばかりがこの世の全てを記述するわけではない。サンプリングについて研究することはそのような問題意識を明確化する上ではうってつけと言えるような議題であったと今では思う。

 というのも、これまでに例として挙げてきたクラシック音楽における変容や、アンビエント・ミュージックなどの発生、シミュレーション・アートの発生などはいずれもサンプリングカルチャーと近しい問題意識を抱えていることは既に述べてきた通りであるが、その前提はいずれも西洋文脈やモダン思想に対する反動意識に支えられており、究極的には文脈化されるものである。それに対してヒップホップやクラブカルチャーにおけるサンプリング・ムーブメントは文脈的に論じられる可能性はいずれも有していながらも、その前提が既存の芸術文脈には無く、むしろ生活圏の中での遊戯的精神などに支えられているという点において実に独特である。西洋芸術文脈における20世紀以降の運動と、サンプリング・ムーブメントにおける生産の諸相が孕んだ問題意識がある種の近似性を帯びていたことは当然ながら偶然とは言えず、むしろ時代の潮流としてそのような西洋的思想の限界が浮かび上がった結果であるとも言える。それ故にサンプリングは時代の連続性の中で論じられる危険性を有しているが、それと同時に連続性とは切り離してサンプリングに視線を投げかけた時、そしてまたサンプリング論に生活者的発想を交える必要性を理解した時に改めてサンプリングは今も脈々と変容を続ける実存の様相を描くための契機として機能することがわかる。

 複製によって芸術が大衆化された時代における芸術を論じるにあたっては大衆の生活を論じる必要性がある。芸術が生活圏にまで足を踏み入れ、制作と受容との関係性が以前とは決定的に異なる時代の中で生活者的な感覚を排除し、理論を行使することは些か危険な行為であるように映る。理性や合理性、構造などといった概念の価値が失墜したと言うつもりは毛頭ない。しかしながら芸術が形作られるプロセスに非合理性が介在する可能性が大いに想定される時代にあっては、合理的判断が芸術の全てを網羅的に分析することができると言う過信を捨てた上で作品や手法と対峙する必要があるのは間違いない。

「率直に言って、二十一世紀が始まるまで、学会ってのは批評や言説の進歩的文脈を曇らせてしまいがちな、階級構造とヒエラルキーの反映だった。ぼくは同時にDJし、アートを作り、書くことで、批評とは物語をコントロールする権威である、といった考え方をやりすごし、ウェブ・カルチャーと共鳴する新しい役割を生み出そうとした。コンテンツの提供者、プロデューサー、そして批評家として、全てが一度に機能する役割。それは、デジタル・パフォーマンスとしての役割の連結なんだ。」

 本論における題は「サンプラー的身体」であるが、実際の主題は「複製技術以降の作品と実存の変容-音楽を巡って」といったところであろうか。掲題とは裏腹にサンプリングに直接的に関わる議論の少なさにやや面食らった部分もあるかと思われる。しかしそれでいてやはり「サンプリング」というキーワードを主軸に据えることを徹底したのは先にも述べた通りサンプリング・ムーブメントが多分に生活者的発想、非合理性などによって支えられてきたからであり、またサンプリングが可能とする異なる地点を繋ぎ合わせという発想を前提とした上で現代にまで通底する実存の変化を論じることが比較的誠実な方法論に思えたからに他ならない。

 ヒップホップは少なからずルーツ志向的側面があることはこれまでにも述べてきたが、それでいてサンプリングを用いることによってある種の聖域を個々人の思うように変容させる力を持っているという事実は重要である。それは決して礼拝的態度を前景化することはない。言論の世界にも当然ながら存在する神域にも大胆に介入し、それを変質させる動力を確保するにはサンプリング的発想がどうしても必要であったのだ。随分と拡張と分裂を続けてきた本論ではあるが、この論がまさしくサンプリング的とも言えるほどに、無作為に異なる領域を繋ぎ合わせるものであることは既にお気づきかと思われる。身体、アンビエント、リズムの接合や、クラシック、ダンス・ミュージック、黒人音楽、アートなどを同一線上にて語る不断の軽やかな跳躍こそがまさしくサンプリングの得意とするところであるし、そのような越境と跳躍の連続的思考体として考えることこそが1章にて述べてきたサンプリング的なサンプリング考察を表す。

 ありとあらゆる物に接続し、感応する身体と非合理性をも射程の内に入れた思考が溶け込んだ、個人的であり、非人称的な自己としてのサンプラー的身体。

「部分は全体を語り、全体は部分の延長。」

無限の分裂に身を委ねる。そして自己は自らであると同時に全てになる。

「方向は何処へでも向かっていく可能性がある。」

規則も持たない。何の文も形成し得ない。君は何者にでもなり得る。

「必要なのはとりたてて新しい聴き方ではなく、ぼくらが何を聴くことができるか、という新しい知覚作用」 。

音響と空間と都市の海を軽やかに踊るときに革新的なジャンプは起こる。

その時「どんな音も君であり得る。」

参考文献

・ポール・D・ミラー(2008)『リズム・サイエンス』上野俊哉・今西玲子訳,青土社.
・ロラン・バルト(1977)『テクストの快楽』沢崎浩平訳,みすず書房.
・ロラン・バルト(1984)『第三の意味 映像と演劇と音楽と』沢崎浩平訳,みすず書房.
・ロラン・バルト(1985)『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳,みすず書房.
・ウルフ・ポーシャルト(2004)『 DJカルチャー ポップカルチャーの思想史』原克訳,三元社.
・フリードリヒ・ニーチェ『悲劇の誕生』岩波文庫
・ミラン・クンデラ(1998)『存在の耐えられない軽さ』千野栄一訳,集英社文庫.
・Jアタリ(2012)『ノイズ 音楽/貨幣/雑音』金塚貞文訳,みすず書房.
・ジョーダン・ファーガソン(2018)『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』吉田雅史訳・解説,DU BOOKS.
・W・E・B・デュボイス(1992)『黒人のたましい』木島始・鮫島重俊・黄寅秀訳,岩波文庫
・ルートヴィヒ・クラーゲス(1971)『リズムの本質』杉浦寬訳.みすず書房.
・多木浩二(2000)『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』岩波現代文庫.
・原雅明(2009)『音楽から解き放たれるために-21世紀のサウンド・リサイクル』フィルムアート社.
・原雅明(2018)『ジャズという何か』DU BOOKS.
・渡辺裕(1996)『増補版 聴衆の誕生-ポスト・モダン時代の音楽文化』中央公論新社.
・野田努(2001)『ブラック・マシン・ミュージック ディスコ、ハウス、デトロイト・テクノ』河出社書房新社.
・井手口彰典(2009)『ネットワーク・ミュージッキング 「参照の時代」の音楽文化』勁草書房.
・東谷護編(2008)『拡散する音楽文化をどうとらえるか』勁草書房.
・椹木野衣(2001)『増補 シミュレーショニズム』ちくま学芸文庫.
・久保田晃弘,畠中実編(2018)『メディア・アート言論 あなたはいったい何を探し求めているのか?』フィルムアート社
・上野俊哉(2017)『増補新版 アーバン・トライバル・スタディーズ』月曜社.
・山田陽一(2017)『響きあう身体 音楽・グルーヴ・憑依』春秋社
・山下尚一(2012)『ジゼール・ブルレ研究 音楽的時間・身体・リズム』ナカニシヤ出版.
・鈴木正美『音楽的身体とパフォーマンス』
・大和田俊之『アメリカ音楽史』
・Henri Lefebvre(1992)『Rhythmaanlysis-Space, Time and Everyday Life』Stuart Elden・Gerald Moore訳,Bloomsbury.
・Thomas Turino(2008)『Music as Social Life : The Politics of Participation』University of Chicago Press.
・Anthony Storr(1992)『Music and the Mind』New York:Ballantine Books.

参考WEB

・Fab5 Freddy &Max Roach : Hiphop, Bebop, Spin October1998
https://fxowen.wordpress.com/golden-oldies/fab-5-freddy-max-roach-hip-hop-bebop-spin-october-1988/
・【和訳】インタビュー カニエ・ウェスト 『YEEZUS』の世界観と精神性 、これまでのキャリアについて(Kanye West)
http://netraq.blogspot.com/2013/07/yeezus.html


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