嘘の日に

ランドセルに入りきらない大きなファイルを手に持って、少女が私の顔をのぞき込んだ。控えめに、恐る恐る。
「奈々美だけは、私の味方だよね?」
コンクリートの汚れを数えていた私は、彼女の目を見た。くっきりとした二重のまぶたの下に埋まった茶色の瞳。どこか日本人ばなれした、綺麗な綺麗な瞳。
「うん」
私はとっさに目を逸らし、小さく答えた。
「よかった」
そっと彼女の表情をうかがうと、涙をこらえて笑っていた。
次の日の昼休み、彼女が橘さんにトイレに閉じ込められても、私は目を閉じ耳をふさいだ。私は嘘をついた。

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真っ黒な制服についた白いチョークの粉を払っていると、彼女が話しかけてきた。
「奈々美、前回の実力テストも良かったんだってね。奈々美だったら南高校も余裕なんじゃない?」
私の汚い制服を見ても、彼女は綺麗茶色の瞳を細めていた。
「えっと、山口さんは金子さんのグループだし、私に話しかけているのが橘さんにバレたらやばいと思うんだけど」
私は目を逸らし、そう小声で彼女に伝えてから、再びチョークの粉を落とす作業に戻る。教室の端から、橘さんがこちらを見ていた。
「奈々美、昔みたいに真希って呼んでよー」
冗談めかして私の肩を叩く彼女。私は制服を見つめることしかできなかった。
「分かった」
そしてまた、嘘をついた。

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四月一日の深夜、嘘が詰まったメールにも飽きてきた頃、橘さんから嘘が届いた。
『真希が死んだって聞いた?』
いくらなんでもやりすぎだと思った。本人が仕組んだにしても、この嘘は質が悪い。
『もう!エイプリルフール、あと五分で終わるよ!』
キラキラと動く絵文字を添えて返信する。同時に、心臓の鼓動が速くなっていった。金子さんは、こういう嘘をつく人ではないと分かっていた。でも何か、何か手違いとか罰ゲームとか、悪ふざけが過ぎたとか、何かがあると信じた。嘘だよ。嘘。
橘さんからの返信を見た時、思わず携帯を閉じた。そして、沢山の人にメールを送って回った。何度確認したって、私が知ることが出来たのは、彼女の通夜と葬式の日程だけだった。

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「突然死だっけ?怖いよね〜」
「心臓だっけ、脳だっけ」
「山口、高校でもいじめられてたんでしょ」
「え、自殺なん?」
お通夜の会場から少し離れたところで、ひそひそと、女の子たちが話していた。なぜだろう、もっと詳しく聞きたいのに、これ以上何も聞きたくなかった。
小学校の先生、中学校の先生が次々に声を掛けてくるのに、何も聞こえなかった。一緒に来ていた橘さんが、全部応えていたようだった事だけ分かっていた。
携帯で調べたように、名前を書いて白い封筒を渡す。葬式でもまた渡した方がいいのかな、後でまた調べなくては。
用が済んだら、もう、すぐに帰りたかった。これ以上長くいたら、周りの人の、可哀想という声に侵食されそうな気分になってくる。そっと帰ろうとしていると、泣き崩れる金子さんが目に入った。
「金子さん、山口の一番の親友だったもんね」
橘さんが、私じゃない誰かに話しかけていたのをぼーっとしながら聞いた。

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もう使わなくなってしまった学習机を、引き取ってもらうために整理していると、スヌーピーのキーホルダーが出てきた。目の前で振ったり、手のひらの上で転がしていても、それが何だったかしばらくは思い出せなかった。
けれど、それが彼女から貰った誕生日プレゼントだった事を思い出した瞬間、彼女との思い出が頭の中を駆け抜けた。
思い出した今となっては、自分が彼女のことを忘れていたというのが信じられない。けれど、身体から力が抜け落ちて、床に涙がこぼれ落ちていくのを感じて、やっと、彼女が死んだことを受け入れられたのだと分かった。

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涙が止まって、やっと立ち上がれるようになった頃、机の整理を放り出して、こっそりと家を出た。
彼女に謝ればいいのか、お礼を言えばいいのか、もうすぐ二十歳の誕生日を迎えることを伝えればいいのか、頭の中は混乱したままだった。
だが、不思議と感情は凪いでいて、足は誰かに操られたように動いていた。彼女に会いに行かなければ、それだけは固く変わらなかった。
お花とお水、それから線香。祖母のお墓参りを思い出してスーパーで品物を集める。そして、彼女の好きな向日葵の季節には、まだ早かったが、似たような黄色の花を持っていこうと、近所の花屋に立ち寄る。
似た花でも、きっとこちらが嬉しくなるくらい喜んでくれる。彼女はそういう人だったと思い出した。
「おっ!?奈々美、ありがとう!」
彼女の少し大袈裟な反応と、曇りのない笑顔が見えたような気がして、つられて私も少し微笑んだ。