見出し画像

私は

私は

コミュニケーションが上手くいかなかったな、と思う時、大抵自分のターンで理解してもらうことを諦めていることに気がついた。
ちょっとした誤解があるまま話を進めて、なあなあにして終わらせてしまう。私なんかとのラリーは少ない方がいいですよね、すみません、みたいな良くない謙遜が働いてしまう。
今後も付き合いのある相手なら、多少労力を割いてでも諦めない方がいいに決まっている。対話を諦めない。意識していきたい。
こういうことを考える度に、文章はいいよなと思う。時間をかけて言葉を尽くせるから。ラリーが発生すると卑屈を発動してしまうので、文章といってもLINEやDMは得意ではない。Xとかnoteとか手紙とか、一方的に発信できる形式が気が楽。
こんなのは甘えなので、やっぱり対話を頑張っていきたい。

私は

サンボマスターが好きだ。そんなにたくさんの曲を知っているわけではないけれど、とにかく考え方に共感できる部分が多い。そんな中、一箇所だけどうしても理解ができない部分があった。
「昔の手紙を思い返してもそこには何もありませんよ」(『美しい人間の日々』より)
ここだけ、何度聴いてもすっと飲み込むことができなかった。昔の手紙を思い返して、元気をもらったり愛おしく思ったりすることをサンボマスターは許してくれないのだろうか。
つい最近辿り着いたひとつの仮説がある。
私が想定する「昔」は今と地続きの大切なもので、サンボマスターが言う「昔」は歌詞冒頭の「過去」同様に、決別するべき暗くて忌まわしいものなのではないだろうか。私が思うサンボマスターは「暗くて辛い過去はもうおしまい!今日からは明るくて眩しい未来が待っている!一緒に行こう!」というメッセージを一貫して伝えている印象なので、「昔の手紙」にもこのイメージが適用されるのではないか。
そう解釈すると、私が未だにこそこそと大事にしている手紙や言葉は、経過した時間に限らず「今」の手紙なのかもしれない。
都合よく解釈しているような気もする。
許してほしい。

私は

人から信じてもらえた時に強く喜びを感じる。
3日前くらいに気がついた。
人に信じてもらうために自分のことは自分が一番信じていたいし、信じるための努力を惜しみたくないと思う。(最近この辺りが疎かになっていてソワソワする)
愛されたいとか敬われたいとか褒められたいとか、グラデーションみたいに様々な社会的な?欲求があると思う。私はダントツで、信じてほしい。信頼をやたらめったら可視化してほしいとは言わないから、心の中で信じていてほしい。それが何かの拍子にちらっと見えたりしたらそりゃあ嬉しいけど、それは欲張りなので、とりあえず信じていてほしい。私の人間性全部ではなくて、例えば「美味しいと言う食べ物のセンス」でもいいし、「"面白い"の言葉」でもいい。何かをちょっとだけ信じてくれたらとても嬉しい。
私の「早く寝る」は本当に信じられない。

私は

目当てがいないライブに行くこと自体は面白そうとさえ思えれば特に気にならない。ただ、あまりにも目当てが"いそうなのにいない"ライブは"いない"を感じすぎてしまうので足が遠のく。
"いそう(いてもおかしくない、いてくれよ)"というのががキャリアなのか界隈なのかは場合によるけれど。
逆に、いそうなのにいない、と悲しんでいたライブに出演が決まると嬉しい。ライブのこと考えすぎかも


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?