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言葉

東京都現代美術館で開催されている展覧会、「翻訳できないわたしの言葉」に行った。

行ってよかった。文字・音声に留まらない"言葉"に触れて、自分が過ごしている環境では見えていなかった人々の思いや暮らしを覗くことができた。これから出会う"あなた"のこと、画面越しでしか出会わないかもしれない"あなた"のことを少しでもわかるために、見に行けてよかった。

南雲麻衣さんの展示が特別印象的だった。
私は人工内耳の手術のこととか、それに伴って難聴者の方がどんな経験・思いをすることがあるのか全く知らなかったので、はっとさせられるところが多くあった。それに加えて、コミュニケーションの相手によって音声言語や手話といった手段を使い分けている様子(展示では"旅"と称されていた)が胸に響いた。線を引くでもなく、諦めるでもなく、目の前の"あなた"と分かり合いたい気持ちがダイレクトに伝わってきた気がした。

私は言葉で傷ついた経験が少なく、傷つけた経験は多いと思う。高校2年生くらいの頃から"あなた"のことを理解したいと思うようになって、同時に理解し合うことは相当難しいし、証明しようがないと諦めるようになった。
大きな価値観の転換はないまま、悩んだり試したりしながらここまできたけれど、今日展示を見て、改めてわかることを諦めたくないと思った。

わかったと言いきることができないうえで、それでも諦めたくないし、わかりあえた気がすると喜ぶことを放棄してしまうのも寂しいと思った。

わかることにも、わかってもらうことにも、誠実に向き合っていきたいと思った。
ささやかでも理解し合えた気がしたら、素直に喜びたいと思った。
これは無知を受け入れて、わかりあえない前提で"あなた"を知ろうとすることと相反しないと思ってみることにした。

文字でも音声でも、一方的な言葉でも対話での言葉でも向き合いたい。

私は今日の感情を、文字の言葉に残すことで保存してみようと思う。


話は逸れるけど、私よりも先にこの展示会に行ったフォロワーが、「最後の部屋にあったガーランド(来場者が展示を受けて言葉について感じたことを書いて飾る)にダジャレが書いてあって、餅さんのことを思い出した」というようなことを言っていて嬉しかった。
私が行った時にはその紙は多分なくなっていたけれど、ダジャレを見て私のことを思い出してくれたことが嬉しかった。

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