愛は雨

6年ほど前、『超訳ニーチェの言葉』という直和訳をさらに噛み砕いて理解し易くしたバージョンの哲学書を読んだ。このことを知り合いに話したら『超訳?』と言われ、言外に(ぷぷぷ、それで読んだ気になってるんだ)という雰囲気を感じた。超訳でニーチェの思想の純度が損なわれていたとしても初心者の私にとってはありがたくて、翻訳者の解釈も併せ呑むくらいでちょうど良かったんだと今なら開き直ることができるけれど、当時はニーチェを正面から理解できていない自分が恥ずかしくなった。それ以降なんだか哲学者の本を敬遠してしまっている。

その数少ない私の哲学者の言葉フォルダに『愛は雨のように降る』というものがある。もちろん引用元は超訳ニーチェの言葉。
公正さのほうが愛よりよっぽど知性的で、愛は愚かなものなのになぜみんな愛を賛美してやまないのか。それは愛が愚かだからこそである。愚かだからこそ心地がよく、全員に分け隔てなく降り注ぐのだ。というような意味合いの言葉。これは超訳の超訳だけど。
高校生の頃に読んだ時よりも今の方が納得できている気がする。愛を憎む人でさえ愛からは逃れられないくらい全員のそばにあるから、こんなに愛の話(恋バナとか家族愛エピソードとか動物愛エピソードとか)は幅広く盛り上がるんだろうなあ。

急に超訳ニーチェの言葉を引っ張ってきたのは、さすらいラビーのネタを観ていたら急に思い出したから。WLUCKのインタビューで(この部分にはご本人らが仰っていたことなので素人が何やら語りますが殺さないでくださいという意味合いが込められています)、さすらいラビーのネタはお笑いが好きではない人でも楽しめる、初見に優しいものが多いと言っていた。アメリカとかまさにだよなあ。今やってるキモい恋愛(キモいのは恋愛にとどまらないのだけど)のネタも受け入れ層がかなり広いと思う。これって"愛は雨"状態なんじゃないかとふと思った。愚かだからこその良さというか、キモが雨のように分け隔てなく降り注いでいるというか、結局のところ何にも理解していないけれどなんていうか、すごく好き。あと自意識とキモがせめぎ合うけれど、それがキモに拍車をかけてしまっている描写がすごい。
さすらいラビーのキモいネタが好きって話がしたかっただけなのに、気づいたら自分のキモさが露呈していてお恥ずかしい。今日見た新ネタが本当に好きだったという熱量だけの文章。読み返していくら恥ずかしくても消さないでおきたいと思う。

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