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五分くらい掛けて丁寧に歯を磨く

 小学六年生の時に「歯の健康優良児」に選ばれたことがある。通っていた公立小学校での歯科健診で、学年(もしかしたら学校全体)から男女それぞれ一名ずつ選出されるうちの一人になったのだ。歯磨きの習慣は人並みにあったし、特に痛いところがなくとも歯医者には定期的に通わされていたので、それなりに綺麗な歯をしていたのだろう。矯正していないわりに歯並びも比較的整っているので、完全に親のおかげである。健診の際に歯の番号を読み上げる作業はほんの数秒で終わり、「この子に印付けといて」と歯科医が横に居た助手に告げたのを未だに覚えている。横目でカルテを覗いてみると端の方に星印があった。
 僕はもう一人の女の子と共に全校生徒の前で表彰され、後になって近隣地域の各学校の「歯の健康優良児」を集めた歯科健診を再度受けることになった。さながらスポーツで予選を勝ち上がってより広い地域での勝者を決めるように、そこからさらに歯が綺麗な生徒が選ばれるようだった。そこで僕の健診を行った医師は途中で隣の医師に話しかけ、「これどうします?」「いやあ、難しいところですね」「一応残しときます?」みたいな会話が繰り広げられた。子供は大人同士のその手の遣り取りを決して忘れない。結局、僕は選ばれなかった。

 今振りかえってみると、僕はそれ以降歯をより念入りに磨くようになった気がする。「歯の健康優良児」というある種のレッテルを貼られ、その役割を果たさなければならないような義務をなんとなく感じていたのだろう。公共のトイレにある「いつも綺麗にご利用いただきありがとうございます」と同じである。朝食後と就寝前の一日二回、僕は五分くらい掛けて丁寧に歯を磨くようになった。気分が良い時なんかにはイヤフォンで音楽を聴きながら延々と続けてしまい、後で歯茎が痛くなったりした。磨いた後には舌で歯の表面をなぞって確認し、まだちょっとザラついていようものならやり直すこともあった。歯ブラシは一ヶ月に一度くらいのペースで買い替え、新しいものが気に入らないとすぐに捨てて買い直した。
 勿論、そこまで熱心に歯磨きをしている期間がずっと続く訳ではない。急いでいて適当に済ませてしまうこともあるし、疲れた日には帰ってきてそのまま寝てしまうこともなくは無い。しかし平均的に見た際、僕の歯磨きの習慣が結構ストイックなものだと気付いたのはオーストラリアに住んでいた頃だった。僕はずっとシェアハウスやホステルで不特定多数の他人と共同生活をしていたので、彼らの生活習慣を身近で見ることになった。そして「こいつらはいつ歯を磨いているんだろう?」という疑問を抱いたのである。よくよく観察してみると、大抵の人が朝か夜の一回しか歯を磨いておらず、それもせいぜい三十秒から一分くらいだという事実に気が付いた。歯ブラシの先は大抵開き切っており、一年くらいは使ってそうなものが多かった。

 そんな訳で僕は生まれてから一度も虫歯になったことがない。親知らずも抜く必要が無いと診断されたことがあり、幸運にも歯については問題を抱えたことがほぼ全くないと言える。たまに数年おきにその辺の歯医者に歯石を取りに行くと、例の歯の番号を読み上げる作業はあっという間に終わる。

#いい歯のために

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