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祝辞

去年の三月、中村佳穂のライブに行った。働き始めて四ヶ月が経った頃で、慣れてきたとはいえ、覚えるべきことはまだまだあって、仕事終わりのほどよく疲れた頭と体でオーチャードホールへ向かった。

開演すると、ホールは豊かな音と光で満たされた。ここに来ることができて本当によかったと思いながら、三階の正面の席でわたしは曲に合わせて手を叩いた。左隣にいたクールな見た目の男女二人組はゆったりと聴いている一方で、右隣では男性がノリノリで手を叩いていた。わたしの手の音と、右隣からの手の音、お互いの体を揺らすリズムが心地よく重なる。楽しい。中村佳穂の伸びやかな歌声に幸福感でいっぱいになって、わたしの手は突然止まり、目に涙が溜まってきた。そのまま正面の舞台を見据えて固まっていると、一瞬、隣の人が様子を伺うような素振りを見せた気がした。客席に向いたライトが旋回してわたしの目を照らした気もした。その一瞬ののち、隣の人は一層力いっぱいに手拍子を続けた。

この身体を揺らす喜び
真面目に向き合わないと思うと見落とす

♪“祝辞”/中村佳穂

それから一年が経った。上司には「もうベテランだね」と言われるようになった。そう、とても入れ替わりの激しい職場で、すでに何人もの退職者を見送っているし、新しい人が入ってくれば業務を教えるようにもなった。働き始めて一年半足らずだけれど、ベテランのような気にもなる。

最初の頃は、誰かの転職が決まると、過剰に不安がったり寂しく思ったりした。その人はその人自身のためのベターな選択をしたまでなのに、置いていかれたような、見捨てられたような気分になったし、わたしの人生にはほとんど関係のないことのはずなのに、わたしはこのままここに居続けていいのだろうかと思わされた。
でもある時、先輩は仲の良い後輩の退職が決まって、「次の職場が決まったんだから、祝福してあげましょう」と言った。スパッと、カラッと、そう言った。それを聞いてからわたしは誰かがいなくなることをあまり寂しがらなくなった。

最近、過去に勤めていたという大先輩が職場に遊びに来た。初めて会うその人に自己紹介をして「頑張ります」と言ったら、「せっかくやるんだから楽しんでやってね!」と軽やかに返してくれた。
今の仕事は楽しくできているし、向いているんだと思う。だから、わたしはわたしに合ったこの場所でしばらくは働くつもりだ。みんなそれぞれの都合で辞めていくかもしれないけれど、わたしは流されず先のことはいったん置いておいて、この仕事ができている今を楽しんで更新していく所存。がらりと環境を変えなくたって、少しずつ良い方向に変わっていけると信じつつ。


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