とある本
好きな人がいた。
物心ついた時にはもう、好きだった。
幼い彼と、幼い彼女。
彼が長らくの間想いを寄せ、やっと実った恋だった。
彼女には秘密があった。
不思議な能力を持った、宿命持ち。
時が経って、大人になって、
ついに明かされてしまった、知ることになってしまった秘密に、
彼女も彼もひどく心を痛めた。
とある本があった。
本は、半分にした者の願望を叶えるらしい。
彼女はそれととても縁が深いようだった。
生まれながらにして決まったものだ。
彼女だけが知っていて、彼女だけで独り受け止めて、生まれてから死ぬまでの間、ずっとずっと耐えていかなければならない。
けれど尊い、廃れさせてはならない能力のようだった。
本を。半分に。
すると何か、災いが起こる。
半分にしてしまうと、半分にしてしまうと。
彼女は泣いていた。
「知られたくなかった」と言っていた。
彼女が泣いていた、
その泣き顔が嫌に目に脳裏に焼き付いて離れない。
男は、見つけた。
半分に断つべき本を。
そうして断った。
断ってしまった。
目が醒める。
人で賑わっていた。
男は、一人で立っていた。
頭がぼんやりしていた。
何気なく振り返る。
人混みを掻き分けて、誰か走ってくる。
彼と目が合う。
彼 女 だ 。
愛しい彼女は、同じ顔ながら、
まったく違う風貌でもって、目の前に現れた。
しかしながら、彼女は彼女だ。
彼にはすぐにわかった。
彼女には、彼女だけが持つ尊い不思議な力は、今はどうやらなさそうだ。
何故だか、彼にははっきりそれが分かった。
なんともない顔をして、「遅れてごめん」と、小走りに。
彼女が少しの汗をかいて駆け寄る。
視界が滲む。
彼は、もう涙を堪えきれなかった。
彼女を抱きしめる。
訳がわからないというように、彼女は不思議そうに首を傾げてみせた。
自分がいない間、血の滲むような思いをしてきたんだねと。また側にいてくれてありがとうと。胸がいっぱいになった。姿が変わっても、場所が変わっても、それでも、かわらず愛おしい。彼にはそれが幸福だった。
もう昔々のお話。
すでに色褪せたお話。
彼だけが、知っている。
彼だけが、覚えている。
他に誰一人知りはしない。
今抱き締めている彼女が、「知られたくない知られたくなかった」と言って、ボロボロになって泣きじゃくっていたことなど。
彼女、色褪せたいつかの中では、もっとあどけなくて、素朴であった。優しげのない表し方をすれば地味だった。それでも、何故だか、強烈に惹かれた。理由はわからなかった。それでも、彼女はそれにこたえてくれた。
こたえてくれたから。
もう、いつかの、今にも掻き消えてしまいそうに泣きじゃくっていた彼女はどこにもいない。
姿形は変わってしまった。
その頃の彼のことを、彼女は一欠片も覚えてはいない。
すべて、真新しくなった。
真新しくなった、ほんの一握りの彼のことしか、知っていることなどない。
それがどれほど寂しいことかしれない。
積み重ねてきたことも、
この報われない孤独感も、
彼女への気持ちも、
彼女を自分の想い一つで変えてしまったことに対する救いようのない罪悪感まで。
あらかじめ定められていたことを、
歪めてしまった。
歪めてしまったことに対する罰は、すべて彼一人で受け止めなければならない。
受け止め続けなければならない。
まるで解けない呪いのようだ。
それでも、彼は嬉しかった。
それでも、彼は幸福だと思えた。
あのまま、独りきりで彼女がすべてを受け止めて、独りきりで涙を流して、独りきりで抱え続けなければならないことなんかより。この先のことなど例え知る由もなくても、自分が肩代わりすることなんて、ちっぽけなことだと思えてしまったから。
彼女は困ったように微笑って、涙を浮かべる男に戸惑いながらも軽く背中を叩いた。
二つに裂かれた古びた本が、道端に捨てられている。
くたびれたページは、パタパタと風に吹かれて捲られていた。
何も書かれてはいなかった。
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