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どうにもならなくなってきた

とか言いながらまだ生きている。たぶん死ぬまでこれを繰り返していくんだろうなという、悲観のような楽観。楽観のような悲観だろうか。

起きぬけに過呼吸になりかけて仕事は諦めた。代わりに、文字通り暴れ倒して手につかなかった昨日のあれこれを整える。体調とか精神とか、生活とか家族間の約束事とか。

普通にこれ2連休が必要だったのではないかな、等と思いつつ、コンビニに朝食を買いがてら散歩をした。
凍らずに済んだ水面は煙り、息は白くなった。冬の寒さだと思いながら、それを思ったより寒くないと思えた。自律神経が狂ってたときのほうが寒かった。あれはマイナス10度以下の寒さだったと今思う。

温かいココアを飲みながら帰る。その途中に霜柱や凍った水たまりを踏み壊して遊ぶ。壊れた心は何かを壊すことで潤うことがある。自分には何かを傷つけるだけの力があるんだと実感できる。それが、嬉しい。
暴力とも呼べない破壊を自然は許してくれる。昼になればそれらは解けてしまう存在。
「許してくれる」なんていうのは僕の勝手な願いだ。

風のない木の間を舞い落ちる葉が羨ましかった。
光を存分に浴びて、自由に空気と踊って、これから雪に埋葬されていく色とりどりの落ち葉たち。そこにいれば一緒に朽ちていけるのではないかと思ったりした。
けれどその瞬間はたしかに幸せで、次は雪に埋もれたら幸せになれるかもしれないという希望を抱かせてくれる。

永遠はないと思っていた。実際にこの世に起こることの全ては永遠ではないと思う。
ただ最近気づいたのは、この世を形作る理はそう簡単にねじ曲がることがない。ほとんど永遠に近い存在のそれは、数式で目に見えるのだろうなということ。

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