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日記/工作日記

気に入って買ったおもちゃみたいな指輪のサイズが大きすぎた。

たしかめて買ったのに、ちっともたしかめられてなかったのだろう、と、親指でもくるくる回る輪っかを見ていた。
今日は雨で、押入れの中には雪の上も歩ける強めの長靴がある。
もうちょっとなんとかなるんじゃないか?
長靴と指輪が頭の中で回ったあとに弾きだされた一言がそれだった。
放り投げていた端末を起こして検索すると、いくらでも、なんとかなりそうななにかの欠片が身体の周りに浮かびはじめる。
服を着込み、長靴に両足をつっこんだ私は、雨降りの外へと続くドアを開けた。

テグスとビーズとボンドを握りしめ、部屋に帰ってきた私は、でかい布を机に敷いてからそれらを広げた。
絶対にビーズをまき散らす自信がある。色も三種類あるけれど、うっかり混ぜる自信もある。
そんな自信を、この布なら受けとめてくれそうだった。
端末をまた起こして、まずは「お花の指輪」というものの作り方を読みはじめた。
通して、くるっとして通して、またくるっとしてギュッとやるとお花になるらしい。なるほど、できそう。
結果としてはできなかった。
何回やっても、お花の真ん中にしたいところが外に弾き出されてしまうのだ。
もやい結びとか、バタフライノットとかも全く覚えられなかったな。八の字巻きだけ大好きだった。
八の字巻きの快感を思い出しながら、端末をスクロールして、違うやり方を探す。
最初にくるっとして、キュッとしてから、一個ずつ通していく「シンプル指輪」というものを発見した。できそう。
さっそく、好きな色を好きな順番で通していく。
指のサイズにあうように、ときどき巻きつけてたしかめながら作っていきましょうとのこと。
巻きつけてみたところ、思っていたよりたくさん通す必要がありそうだ。うれしい。
黙々と作業を進めていると、これまでの工作の思い出が脳からひっぱりだされてくる。

作ったものを、「ごみみたいなもの」と言われたことがあった。フェルトにちくちくなにかをやった、なにか。
まだ一桁ぐらいの年頃だった私は大泣きしてごみじゃない、と主張したが、「仲間内では仲間が作ったものはそういう風に表現するものだ」ということだったので、そういう考えもあるのか、と、黙った。
こういうことはまあまああって、おそらくみんなそれぞれにあって、そこそこ成長した私は、とにかく、自分が悲しかったことを誰かにするのはやめとこう、ぐらいで、ふわふわと生きていた。
そして、十年ぐらい前のこと。工作の話題になった際、笑い話のつもりで「ごみみたいなもの」と言われたことを話した。
すると、聞いてくれた人がみるみる悲しい顔になってしまった。
しまった。
こういうこともよくあって、その頃はそれを必死になって避けようとフヌ!フヌ!とやっていた気もする。
でもそれは避けられなかったし、避ける必要はないものだった。

きらきらしながら逃げていくビーズを捕まえては通しながら、それを思い出している今の私に、戻ってくる。
最後のビーズを通したら、最初のビーズにテグスをシュッとしてギュッとしたら完成らしい。
できた!と思ってはめてみた瞬間、結び目が解けてビーズはバラバラになった。
布はすべてをそっと受けとめてくれた。
そこで急に、なにが間違っていたのかぜんぶ理解した。
そもそも、最初のくるっとが、あっちからじゃなくて、こっちからだったのだ。
突如エンジンのかかった私は、三倍のスピードで動き、再び指輪を完成させた。
いつも思うことではあるが、失敗してからの私は失敗する前の私よりもいきなりビカーッと輝きだす。
最後に、ボンドを結び目につけて、固める。しかし、なんとなく不安なのでマッチを探し出し、結び目をちいさな火で炙った。
こんどこそできた!
大きい指輪をはめ、その上に完成したばかりの指輪をはめる。
手をぶんぶん振っても大丈夫。落ちてこない。転がらない。すごくうれしい。
むかしむかし、作ったものも、今日できたこれも、私にとってはうれしいなにかの塊である。
である!と、言っていいのだ。

部屋の灯りの下でも、指輪がかわいく光る。
またこれをつけて、どこかに行こう。
明日もまた雨らしい。けれど、なにかが、なんでも、なんとかなるだろうと信じている私のことを、私は信じている。

20240118

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