「それはあなたが若いからよ」と、誰かが言った。
「年齢って関係なくないですか?」
と、やり取りの最中に思ったので、お酒が入っていたこともあり、つい口を出てしまった。
一度や二度よりは多いことだった。
たったひとりの誰かではないということだ。
同じように、「性別は関係なくないですか?」
と問うてしまうこともよくあるので、含む意味合いは違えど、近い種が芽吹くのは、そう珍しいことでもなかった。
年相応な大人になりたいと、思っていたのはいつのことだったか。
社会人になる前だったか。「社会人」から離脱した瞬間だったか。学生の頃だったか。子どもの時だったか。
「年相応」。
嫌いな言葉だ。
判断基準が個人に偏るくせに、暗黙の了解で一同に把握させ、線引きをさせようとするからだ。
言外で察するものの温かさや美しさとは、そういうことではない。と、今のわたしは思っている。
その歳で
そんな服を着て、そんな音楽を聴いて、そんな本を読んで、そんな言葉を使って、そんな夢を見て
恥ずかしくないの?
とは、あなたに言われる筋合いはない。
たったひとつの単語でそこまでを考えてしまうのだから、思い込みが激しいったらありゃしない。わたしの話だ。考え過ぎである。誰しもがその問いを含んで「年相応」と使っているわけではない。
尊ぶニュアンスで使っている場面も勿論知っている。でもそういう時は使っている人の表情、仕草、声の抑揚、テンポ、文脈で全てが伝わる。あまり多くはないのだ。
大抵の人は、
揶揄のために
自戒のために
保身のために
嫉妬のために
「年相応」に、と釘を刺す。
とは言え何故こうも強く言ってしまうのかというと、それはあたりまえに、わたしにも同じ感覚が生きているからなのだった。
年齢に意味はあるし、優劣をつけてしまうし、自制が利かず他人の様相に首を突っ込んでしまうことがある。
なんてったって既に年齢についてつらつらと思い耽る文章を書き残している
https://note.com/0atori/n/n1a84be30d816
し、自分より年下の美しい感性に出逢うと一瞬立ち止まる。うわ、もうこれ無理じゃね?と思う。
この歳になって何やってんだろ、と思う。
1998年生まれのわたしはたった3歳の差を指して「いや〜〜やっぱ20世紀生まれと21世紀生まれにはデカイ壁がありますよ」などと冗談混じりにのたまう。
そして1人、我に返っていやだなあとおもった。
そういう自分がきらいなわけではないが、でも、このままで在り続けようとは思えなかった。
毎秒、むせかえるような劣等感と、勝手に滲む焦燥感と、理不尽にまで思える自分の欲に辟易している。
その感情が自分事なので、わたしに「あなたは若いから」と伝えてきた人たちの、痛みがのしかかってくる。
きっと彼らも同じことを思い、考えて、そうして悔やみ、妬み、苦しんできたのだと知る。
知らなければよかったのに。
知らなければ、うわなんか言ってくるわ「先輩」たちが、と同年代間で悪態をつき、同じ年齢に到達して、あの時の人たちと同じこと言ってるよな、と酒の肴にする。
そういう楽しみ方もあったのに。
同じ呪いをループのようにかけ続けて、美学にしていくことは、したくないのだ、わたしは。
今受けた傷の痛みを、「あとになったら愛おしく思えるから今のうちに大事にしときな」なんて、過去のわたし(、あるいはそれに近いまだ見ぬ彼ら)へ引き継がせていきたくなどないのだ。
それは傷である必要がほんとうにあるのか?
過去の痛みに蓋をして言い聞かせて、同じことを繰り返させるのか?
痛みであったことを忘れたのか?
自らの価値を下げる判断基準を、どうして持ち続けなきゃいけないのか。それがスタンダードとさせるのか。上手に生きなさいと悟らせるのか。
上手に生きられないから、わたしがこうもひとりでに息を詰めているのか。
毎日を過ごしていく限り、解き放たれることなんてありはしない。わたしより鋭くこれからを願っているひとも数多いることだろう。
「年相応」に、社会にはたらきかけることができず、今もまだぐるぐるとぐらぐらと日々を営んでいるわたしの正当化なのかもしれない。あるいは憧れだけが大きくなり、歪にわたしの情緒を弛ませているのか。
それでも、
重ねることに意味はあれど、価値が下がることはないと、どうか伝えてほしい。諦めながら時を刻むことに、何の楽しみがあるのかと、思っていてほしい。楽しみがあるなら、できればひとつずつ教えてほしい。
未来の誰かへ。
このままでいいと、今のわたしを抱きしめてほしい。
わたしも今から、過去の誰かを抱きしめるので。
2021.11.02 あとり依和
(浮遊信号pixivFANBOXより再掲)
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