「悪口を言わない」ことは、「すごい」のか?

小学校高学年から中学2年生くらいの時、わたしたちの間では交換ノートが流行っていた。
同年代お懐かしみアイテムのネタとして、プロフィール帳なんかは今でも話題に上がるけど、それの延長線上に繋がっていったものだと思う。携帯電話を持てるか持てないかくらいの時期で、より深く、限られた輪で、自分のことを伝えたり友だちのことを知ったりするツールだった。

ひとつは5~6人で、日常生活や恋愛話、もし○○だったらみんなはどうする?みたいな話でよく盛り上がるもの。これは小学校を卒業するくらいには自然になくなった。
ひとつは3~4人で、趣味の話を主に。好きなものや萌えるもの、おすすめの漫画や動画、ゲーム、アニメ。これはそのうち創作に発展していって、リレー小説やらに形を変え、高校受験を意識し始める頃にはどうにかこうにか無理くり完結させていたような気がする。
ひとつは2人で、誰にも言えない話を打ち明けるもの。彼女だけが知っていたわたしの感情や内緒と、わたしだけが知っていた彼女の秘密。これは中学卒業間近まで続き、今もわたしの手元に捨てられずに残っている。5年ほど会っていないし連絡先もわからないが、元気にしているだろうか。

重なるメンバーがいたりたまにレアな人が入っていたり、とにもかくにも皆がそれぞれ何冊かのノートを手にし、共有し、回し合っていた。

ある日、共通の友だち同士が知らないノートを渡している場面に遭遇した。
ああ交換ノートだ、この2人はまた別のノートがあるんだなあと気にも留めずぼんやり見ていたら、ちょっと焦ったような様子で説明してきた。
「これ悪口ノートなんだよね、愚痴とかさ」
「だからあとりは多分、ね!」
みたいな口ぶりだったような気がする。あんま覚えてね~な……まあ多分そんな感じ。
要するにほとんどいつものメンバーでのノートで、普段から人の悪口を言わない人(わたし)が省かれて回されていた『悪口交換ノート』だったのだ。中学生にとっちゃほぼデスノートだ。

どんな内容だったのかはわたしは知らないが、というか見せてもらったけど覚えてないのか、あの時の暗くて衝撃的な気持ちは結構覚えている。
ちなみにそのメンバーのうち何人かは今も年に1回会うくらいには大事な友だちである。

前置きが長くなったけれど、つまり「悪口を言えないと輪に入れないことがある」という鮮烈な経験があったのだった。

じゃあ仲間に入れてほしいから誰かの悪口を言うのか、というと答えはノーなわけで。
13歳だか14歳だかのわたしは一抹の寂しさを覚えながらも「聞きたくなかったなあ」と思うに留めて、生きていた。


「悪意」は、それに伴う強い言葉は、共感を生みやすい。
どうしてなんだろう。「嫌い」を言葉にできる人は、強い。

ただ、「嫌い」は、「悪意」ではないような気もしている。

2019年、『青のフラッグ』を通してKAITO先生から「好きという気持ちを認めるのが多様性なら、嫌いという気持ちを認めるのも多様性なんじゃないか?」という問いに強く頭を打たれたわたしはそれ以降、これまで全て蓋をしてきた「嫌いなもの」について考えてみることが増えた。

「好き」も「嫌い」も誰かに否定されるべきではない、大切な自分の感情だ。

どうして嫌いなんだろう。何を嫌いだと感じたんだろう。少しずつ紐解いていくと、わたしの場合大抵は「自己防衛」が起源だった。自分を否定されて苦しいと感じたことや、間接的に自分を否定するような選択に思えてしまうもの。それらを自分への攻撃とみなして、護るために嫌いになる。よくよく読んだ本にも同じことが書いてあった。脳の構造上もそういう風にできてるらしい。

「苦しい・悲しい」が「嫌い」に変容しているのなら、それは誰かに聞いてもらった方がいい。
これを多分愚痴と言うんじゃないかと、わたしはおもっているのだけれど。
「誰かのことを嫌いだ」というのが悪口になるのならば、わたしだってかつて自分を傷付けた恋人や友人のことを酔っ払いながらボロクソに言って泣いて友だちになだめてもらう。「おまえほんとめんどくさいな!」って笑ってもらう。友だちがつらい、悲しい、と伝えてくれる時だって同じように返す。13歳のわたしにはできなかったことだ。10年経ってできるようになってよかった。


じゃあ悪口ってなに? 誰のなにを聞いて、悪口だって感じてしまうんだろう。
学校で。バイト先で。会社で。SNSで。
誰かのミスを、誰かの発言を、誰かの容姿を。まるで天気の話みたいに、訊いてもいないのに話してくるひとは、どこにでもいる。どこにでもいるのだ。ほんとにどこにでもいる~~~~興味ねえ~~~~~~別に知りたくねえ~~~~~~~~それ聞いても自分に何の関係もねえ~~~~~~~~~~~~!!!!!!

コナリミサト先生の『凪のお暇』を読んでいて、「建設的な悪口」というワードが出てきた時、わたしは目から鱗が落ちた。ほんとに落ちた。マジで。
コミュ強営業マンの慎二くんは、取引先や同僚との会話の中で、「求められている悪口」を繰り出しているだけだと言うのだ。それが生きる術。つまり技術。誰かを否定することは円滑なコミュニケーションツールになります!
えっ みんなそんな頭の使い方しながら社会を生きているの? ヤダ!きらい!!!!(自己防衛)


「人を傷付ける言葉を口にしない」というのは母の教えだ。勉強をしろとかちゃんとしろとか言われたことは一度もないし、何なら「勉強で家のことがおろそかになるくらいなら勉強なんてしなくていい!」とまで言ってのけたこともあるくらいの人なのだが(勉強はした方がいいと思うよママ)、そもそも彼女が誰かの悪口を言っているところを見たことがなかった。というか誰かを否定しているところを見たことがなかった。わたしも、弟も、自分の選択や好きなものを否定されたことがなかった。どんな失敗をして迷惑をかけても怒らない人がただひとつわたしを叱るとき、それは「誰かを傷付ける言葉を投げたとき」だけだった。
それも、糾弾や論破ではない、「傷付けたことはわかっているはずだから、一緒に謝りに行こう」と言うのだ。

そんなふうに清く正しく育ててもらったので、家から小さな社会に出た時にそれはもうびっくりしてしまった。
教室の片隅で、トイレで、更衣室で、裏庭で、階段の踊り場で、インターネットで、
今日も誰かが嫌いな人の話で盛り上がっている!

嫌いな人の話で人って盛り上がるんだ!?!???

知らなかったのだ。いや、フィクション上でもよく目にする光景だ。でもあれは誇張されている表現のはずだし、フィクションって特別な空間だし、こんなに生活の中におおっぴらに漂っているほどとは思っていなかったのだ。

わたしは困った。いや、今もなんなら困っている。困り続けている。
同じように困っている友だちと「困ったねえ」と言い合っている。
それで潔癖とか気にしすぎとか繊細だね(笑)とか言われるわけだ。困らせてくれよ。(これは愚痴。)

せめてわたしができる対処は、わたしの感情をどういうふうに発露するのか工夫することくらいで、でもそれは、同じように困っている友だちを直接的に助けてあげられる方法ではない。

会社の愚痴は、会社にいない人へ。
家族の愚痴は、家族じゃない人へ。
友だちの愚痴は、友だちじゃない人へ。

知ってる人のいやな話、聞いてもどうしようもないんだ。挨拶ていどに人を否定する人にはやっぱり心を開けないし、心を開ければ自分の悲しみやつらさをやっと打ち明けられる。否定しない人に打ち明けても否定されないっていう安心感で、また信頼できる。
だから否定しない。誰の選択も言葉もなるべく迎える。ちがう意見だったらちがうよって言う。「ちがう」ことは否定でも嫌いでもないって話は、前に書いた。

どうやって生きていこうか。
そういうことばっかり考えて、今日も日が暮れました。
あなたの悲しみ苦しみが、どうか誰かの存在否定になりませんように。

おわり!


2021.06.02 あとり依和
(浮遊信号pixivFANBOXより再掲)

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