『創作』を『道具』にしたくなかった。
自分が作ったもので何かを為す
ましてや誰かを見返したい などという腐ったエネルギーは
自分にとっては不純物だった。
それで強さを保っているものも美しさを放つものもある。
ただ、
自分がかつて手にしたはずの創作の本来のかたちではなかった。
好きで綴る。楽しくて記す。寂しくて描く。
自分のうちがわとだけ戯れて、自分をひたすら慈しむ、そういう営みであり続けてほしかった。
誰かの正面に立って強がるための、武器になど、為ってほしくはなかった。
いとしいこどもを兵役に出すような心持ちだ。
そこまで尊んで触れたことなどついぞ数えるていどしかなかったであろうに。
エネルギーの変換効率がおどろくほど悪い。
これは駆動材料になるのだろうか? という精査をほどこすことに時間を費やしすぎて、果てには疲労して判断力を失い放っておくなどする。
そうしてできあがったものの純度が高いのかというとそういうわけでもなく、よほど塵や埃が入っていようと回転率を上げて生産されたものの方が、より人の手に渡り、より立証を重ねて質を高めていく。
ああ不出来だなあと、おもう。
「いやあわかってはいるんですけどね、」
という免罪符が好き勝手に散らばっていく。
わかっているから許してくれということにはならないのだ。
ジャッジを下すのが誰なのかはわかっていないのだから。
だから許しを乞うのだ。とりあえず目の前の人に、という妥協のような選択で零れた懺悔は、遅効性の毒となって自らの首をやさしく締め上げる。
ああ、見せたくないな。
ふわりふわりと放課後にまわり道をして、たまたま見つけた誰かの鮮やかな花束みたいな
そういう創作を届けたい。
他人に請わなければ遺すことも困難な足跡など、誰が望んで見るものか。
2021.06.06 あとり依和
(浮遊信号pixivFANBOXより再掲)
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