伝わらないので、伝えている。

 

絵を描きたいな、とおもうとき
大抵わたしはひとりきりだった。

文を書きたいな、とおもうとき
大抵わたしはひとりきりだった。

歌を歌いたいな、とおもうとき
大抵わたしはひとりきりだった。


「なに言ってるかわかんない」、と、そういえば友だちにもよく言われるな、と最近気付いた。相方にもまあまあよく言われる。
使ってる言葉が難しいとか、矛盾が多くて成立してないとか、抽象的で掴めないとか、そもそも早口で何言ってるかわからない(オタク)とか、理由を挙げるとしたら恐らくそういうことだった。

誰かがなにかを言おうとしているとき、なんとなく、「こういうことが言いたいんだろうな」とわかる。
昔から、国語のテストで出てくる「作者の意図の問い」を答えるのが得意だった。何を伝えたいのか、何を思ってるのか、何を乗せたいのか、推察することができた。嘘を吐いている人のことは何もわからないしぜんぶがぜんぶではないが、答え合わせができる場合には大抵合っていた。
そういうことだけは得意だった。

つい先日、会って二度目の人に「1を伝えると3~4はわかってくれる」と評されたので、さてこの人が”わかって”いるのかは置いておき、似たようなことは何度か言われた記憶があるな、と思い出して、どの例も褒められたようなニュアンスだったので、すこしだけ誇らしくなった。
褒められると嬉しいのだ。そして褒めてくれる人はやさしい人なので、やさしい人に言葉をかけてもらうことはわたしの好きなことのひとつだ。

だがいかんせん、わかったところでわたしにできることは、
①頷く・首を振る
②確認をする(「つまりこういうことですか?」という反復)
③一旦持ち帰る
のみっつくらいのことであった。


人が伝えたいことは理解できるのに、わたしが伝えたいことは人に伝わらないのは、これは、おかしな話だ。おもしろい話だ。むずかしい話だ。

言葉を尽くしても伝わらないし、涙を流しても伝わらないし、逃げ出しても伝わらない。伝わらなかった。一度も。たったの一度もだ。

そういうときに鉛筆を手に取った。
そういうときにテンキーを打った。
そういうときになにかを口ずさんだ。

こじつけかもしれないが、きっとそういうことだった。
そういうことであって欲しいと、いま、願っているのかもしれなかった。

そんな感傷は永遠のように長く続いたり、まったく思い出せなくなったり、ふいに喉を締め付けてきたりする。


いまだおそろしいことばかりだ。
どれだけ、どれだけ綴っても伝わらないような気がする。
だから伝えたくなる。伝えなきゃいけないとおもう。
必死に必死に後付けを繰り返す。
そういう急いた感情ばかりが先行して、きっと他人に伝えるための丁寧さが手順から欠けているのだろう。自分のフィルターを外すのがあまりにも不得手だった。
自分にフィルターがかかっていることすら忘れてしまう。
この言葉も、どれだけの色味で伝わっているのかわからない。

人の考えは答え合わせができるのに、自分の考えは答え合わせができない。答えが、見付かってないからだ。

だからつくっている。
残している。
ヒントになれ。と、両手を組んで願いながら。

わたしの、感情の答えの、ヒントになってくれ、
考え続けるから。
つくり続けるから。

そうしてできれば誰かのヒントにも
なればいいのに。
そうしたら許されるのに。


2021.10.16 あとり依和
(浮遊信号pixivFANBOXより再掲)

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