「君と違う気持ちだ」は、「君がきらいだ」ではない。

「なるほど、そうなんですね。わたしは少しちがうかもしれないです。」

を、

言葉のとおり受け取ってもらえないときがある。

どうしてなんだろう。
人と話がしたかったはずなのだが、結果的にすごく疲れているしなにより、傷付いている気がする。

おっかしいな。あれ? なんで?
何故なのかすぐには気付けるほどの瞬発力や思考力はないので、「人とたくさん話をして疲れた」などとその時は結論づける。

でもずっと、ひとりになってからも
どうしてだろう
なんだったんだろう
もやもやしているなあ

繰り返し繰り返しその時のやりとりを思い出してしまったり、なるべく落ち着こうとお風呂に入ったりごはんを食べたりしていると、「あれ、もしかして?」とふと思いつく。

最近少しずつそういう気付きが増えてきて、やっと言葉にできるかもしれない、と思ったので忘れないように自分のために記録をしておきたい。


「君とちがう気持ちだ」は、
「君がきらいだ」

という意味ではない。

ましてや
「君は間違っている」でもないし、
「君は普通ではない」でもないし、
「君の理解ができない」でもない。

「わたしは、きみと、ちがうきもちだ」
という意味。

それ以外の意味がないのだ。

だけどもしかして、もしかしてだけど、そのことに人類の3分の2くらいはまだ気付いてないのかもしれない という可能性がわたしの中で浮上してきた。世紀の大発見である。
(勝手な発見なので確信や証明などはない)

なので、もし、もし気付いてない人がわたしの近くにいたとして、それに気付いてもらえたら、わたしはもっと楽に呼吸ができるんじゃないか? とおもった。すべてはわたしのためであった。

真実はそんなことはなくって、
全人類が気付いているけど「きみがきらいだ」と伝えたいということなのだったら、ちょっとこれからの未来にわたしは希望を持てそうにない。わかんねーんだけど。全人類のこととか把握しきれないし。ちょっとそこまではさすがに興味はないし。

現在わたしが主に生存報告をしているTwitterは、「いかに鮮やかに怒りを表現するか」という方向でゆく先を定めつつあって、「怒り方」や「嫌い方」を教わってこれなかったわたしはたまにぼんやりとしてしまうことがある。思考がフェードアウトしていく。

疲れたら眠くなるように。
驚いたら動きが止まるように。

どうにか自分の身を守ろうとする。


誰かの言葉を選び取るのは、とても難解で、おもしろくて、苦しくて、うーん、……苦しくて、時々すごく、愛おしい。


ついこのあいだ、付き合いが9年目になる友だちに
「きみは違う意見も否定をしないから、わたしはきみにだけノーを伝えることができる。」
と言われたのが、心から嬉しかった。

茶化してカッコつけて
「なに、どしたいきなりww いやまあ〜……、そりゃそうでしょ(澄ました顔)」
みたいな返事をしてしまったのだけれど、内心めちゃめちゃガッツポーズをしていた。すげーいいこと言うじゃん、わたしの友だち。超好きだわ。

「許すこと」は才能だと思っている。
そのひとが生まれもってきたものと、育ってきた環境と、そのひと自身が磨いてきたもの。
全てが複雑に絡みあって混ざりあって、目には見えないかたちでどこかで発揮される。

わたしもまだ「ゆるせない」とおもうことがある。
「ゆるせない」とおもうひとがいる。

まーでもいいかな、ともおもう。
わたしのなかでも「ちがうきもちだ」が起こっても、まあ、いいかな。


それは「わたしがきらいだ」
ということにはならないので。

2021.03.02 あとり依和
(浮遊信号pixivFANBOXより再掲)

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