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9.代わり

誰もが、一生に一回くらいはぶち当たる(かもしれない)劣等感。「自分はできそこないだ」という認識。無力で不出来で自分にイライラする。そういう経験をしたことがある人は、果たしてどのくらいいるのだろうか。

私は昔から、劣等感やコンプレックスの塊だった。原因は実力に見合わないプライドの高さとか、見当違いな努力とか、完璧主義とか、まあ色々あるとは思う。
心当たりはある。

最近になってまた、静まっていた劣等感が押し寄せてくるようになった。
顔、体型、頭の悪さ、そのせいで人に不快な思いをさせてしまうという申し訳なさ。
それなのにそれを改善するための努力も続かなかったり、続いていてもどこか見当違いな感じがしたり。
自分の全てが許せない。どうしてこんな使えない人間が生きているのか。社会のゴミとはこのこと。今の私にピッタリな言葉である。

アカウントを新しく作ってイラスト投稿もしていたが、やっぱり絵も下手。絵の上達には日々の練習が欠かせないが、それも出来ない。
自分の体型が気に入らないからといって、筋トレやら食事管理やらも出来ない。
散歩にも出られない。

先日病みまくって自傷(私の場合は自分の頭を殴る)もしてしまった。
「こんな人間死んでしまえばいい」「代わりなんていくらでもいる」と叫んでいたが、母に「あなたは私がお腹を痛めて産んだ。あなたはあなたしか居ない。換えなんてきかない」と言った。
まあ、普通の親ならそう言うだろう。
そんな人に、『命に嫌われている』という曲の歌詞を是非見ていただきたい。

命に嫌われている


 「死にたいなんて言うなよ 諦めないで生きろよ」
 そんな歌が正しいなんて
 馬鹿げてるよな
 実際自分は死んでもよくて
 周りが死んだら悲しくて
 「それが嫌だから」っていう エゴなんです

カンザキイオリ 命に嫌われている 歌詞

そう、人間どんな人も、死んだら悲しまれるのだ。
老害だって、生意気小僧だって、罪を犯した罪人でさえ、悲しむ人はいる。自分とは関係ない人でも、ニュースを見て心を痛める人はいる。
それが身内になったらそれは悲しいだろう。
でも、考えてみてほしい。
会社の役職も、担任の先生も、バイトのシフトも、法律上は親だって代えがきくのだ。

血の繋がりを除外して考えたら、みんな他人なのだ。
そして今の時代、「長男は家を守れ」みたいな古典的な考えもなくなってきている。

誰でも誰かの『代わり』になれる。『代わり』の方が優秀な例もあるだろう。

そんな中で自分に価値を見いだせるだろうか。
自分よりも優秀な人間が数多いるのが分かっていて、自分で自分の存在を許せなくて、
「私が死んだってどうにもならないから死にたい」
そういう考えになって、何が悪いのか。

死んで欲しくないのなんて今のうちで、その中でも身内だけなのに、どうして肩身の狭い、自由の効かない生活をしているのか(年金ももらっていないし働いてもいないので当然ではあるが)。

自分の人生の終わりを自分で選ぶ権利はないのか。
どうして権利がエゴに負けるのか。

いつか死ねる日を願いながら生きるしかないという事実を変えることが出来ないか。

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