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門前日和氏「第52回創作ラジオドラマ大賞」受賞によせて

友人である(大きく出たな!)門前日和もんぜんびより氏(以下、「もんぜんさん」という)が脚本を書かれたラジオドラマ「父さんが会いにきた」を聴いた。この作品は、栄えある「2024年 第52回創作ラジオドラマ大賞」にて大賞を受賞された作品である。そこで、お祝いの気持ちをこめて感想を書き綴りたいと思う(勝手にすみません)。

物語のざっくりとしたあらすじは以下のとおりだ。
主人公のもとに、病に倒れた父(幽体離脱中)が現れ、なんやかんやしている間に父が亡くなり、その後、生前の父の軌跡をたどっていくうちになんやかんやあって…みたいな話である(雑!!)。

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ある日、主人公リョウスケのもとに、同級生のナカタニから、父カズオが倒れたとの連絡が入る。親が倒れたのなら何を差し置いてもすぐ実家に帰るところだが、リョウスケはめんどくさいだの何だのと理由をつけて帰ろうとしない。両親が離婚して12年も会っていない父だからというのもあるかもしれないが、これ、すごくわかる。私も父が入院中、病院から職場に「お父様が心肺停止の状態です」と連絡があったのだが、なぜか病院にすっ飛んで行こうとせず、「やりかけの仕事があるから、一段落してから行こっかな~」「心肺停止?だったら、しばらくしたらまた復活するかも~」くらいの気持ちになってぐずぐずしていた。後になって考えると、“親がこの世からいなくなってしまう”という恐怖心からくる現実逃避だったのだろう。

翌朝、リョウスケのもとに、倒れて入院しているはずのカズオ(幽体離脱中)が現れる。カズオは「実の父親が倒れたんだぞ、病院に駆けつけてくれよ」とリョウスケに帰省を促す。ここでも仕事が忙しいなどと理由をつけてゴネるリョウスケに対し、カズオは「今すぐ休むって(会社に)言え!」と強めに言い、リョウスケと一緒に出勤する。パワハラ気味の上司に対し、なかなか話を切り出せないリョウスケだったが、「闘え!」とカズオに発破をかけられ「仕事を押しつけることが管理職の仕事だと思うんじゃねえぞ!父さんが倒れたんだ。俺の仕事、あんたがやっとけよ!!」などと啖呵を切って年休を取る。実に痛快だ。
また、リョウスケがカズオに促されて別居中の妻サキを喫茶店に呼び出してやりとりする場面も、サキがずっとリョウスケに対して敬語を使っていることころが、妙にリアルでひんやりした。好きじゃない人話すときは、敬意はなくとも敬語を使いがちになって心理的距離を置いてしまうものだ。

その後、実家の函館に向かう新幹線の中でいろいろ話すカズオとリョウスケ。あれこれ詮索してくるカズオに初めはツンケンしてしまうリョウスケであったが、やはり親からの言葉はうっとうしくも愛情にまみれていて、心の底からは憎らしく思えないようだ。とりわけ、カズオはリョウスケに「おまえは元気でやっているのか?」「元気か?」「幸せか?」と何度も問うところに愛を感じる。リョウスケは自身を幸せとは感じていないようだが、「元気があって、幸せになるつもりがあるなら、それでいい。それでいいよ」とカズオは言う。まるで自分にも言い聞かせるように。親というものは、子に、できればいい学校を出て、いい会社に入って、幸せになってほしいと願う。だが、それは経済的な豊かさからくる幸せであって、心が満たされているかというと別問題だ。人生で、躓いて転んで、悩みに悩んで達観して行きつくところは「健康で生きていればいい」、そこなのだ。そんな中、カズオは消えた。「あ、たぶんだけど、俺死んだわ。じゃあな、元気でな」という言葉を残して。

函館に到着したリョウスケ。だが、なかなか霊安室に行けない、カズオの顔を見るのが怖い、顔に白い布をかけられたカズオに近づくことができない。これも自分の体験とオーバーラップしてしんどくなった。耳からだけの情報で「親の死」を理解してはいたものの、いざ実際に遺体を見て視角から「親の死」を認識させられると、さらなる恐怖が生まれることを本能的に知っているからだ。もう親はこの世にはいない。肉親の死は、恐怖、混乱、悲しみ、後悔、″なんで自分を置いて逝ってしまうのか”という怒り、今までの楽しかった思い出などがごちゃまぜになって襲いかかってきて混乱をもたらす。

カズオの火葬を終え、リョウスケは、同級生のナカタニとともにカズオがひとりで暮らしていたアパートを訪ねる。一人暮らしの高齢男性らしく、やはり家は汚く、ゴミ類があふれていて、おまけに家賃も滞納中。そして布団乾燥機が5台も見つかる。「高齢者をだまして物を売りつける詐欺被害に遭っていたのか!?」と身構えたが、カズオ自身の意思で購入していたものだった。購入先の通販コールセンター担当者ヤマナカによれば、カズオは「布団をふわふわにできる人って、とってもちゃんとした人で、自分もそうなりたい」という旨の主張をしていたそうだ。そうなって息子に会いたい、と。布団乾燥機さえあれば自分を、人生を変えられると思ってるところが多少あさはかではあるが、ヤマナカは「布団乾燥機は、お父様にとって自分を変えるためのシンボルのようなもの」と述べる。今まで意識したことがなかったが、言われてみれば確かにそうかもしれない。自分を変えようとするとき、何かシンボルがあればそれが精神的支柱になるかもしれないし、布団をふわふわに維持できる人ってちゃんとした人かもしれない。

リョウスケが思うカズオの人物像は「臆病、何もしない、仕事もいまいち、ダメ人間」であったが、帰京前に訪ねたカズオの職場の人によれば、カズオは「シャイで真面目、仕事熱心」な印象とのこと。思い出の中の親と、他人が語る親の人物像に乖離があるのも、なるほどなと思った。私は、父が職場で具体的にどんな仕事をしていたのか、職場でどんな風にふるまっていたのか、どんな趣味があってどんな交友関係があったのか、何も知らない。職場で見せる顔と家族に見せる顔が違うのは当たり前のことなのだが、そんなことを考えたこともなかったし、知りたいとも思っていなかった。だけど、いなくなってから親のそういう面を知りたかったなと思うのは勝手だろうか。親というのは、いちばん身近にいるけれど、よくわからない存在だ。

そんなリョウスケは、函館にサキを呼び出す。美しい夜景を見ながらサキにサインした離婚届けを手渡す。ここで「私、やっぱりあなたが好き」「僕もだよ」と復縁エンドにすると途端に陳腐になってしまうところだが、安易に復縁させないのがもんぜんさん流。そして、サキが、ここではリョウスケに敬語を使っていなかったことに注目したい。前に喫茶店で会ったときよりも態度が軟化しているが、サキにまだリョウスケへの気持ちが残っているとは考えづらいので、やっと離婚して他人になれるんだという「清々した気持ち」の表れなのだろう。また、「亡くなる直前に父さんが会いに来てくれた」とにわかには信じがたい話をするリョウスケに対し、サキは「そっか」とだけ、否定したり驚いたりせずに返すところには、よい関係性が垣間見えた。二人の本心はわからない。だけど、おしまいにする。函館の美しい夜景を見ながら”高潔な別れ”を選択した二人に幸あれ。

サキが語るリョウスケの人物像は、何もしない、約束を守らない、思っていることを言わない…といった典型的なダメ男である。サキが離れていくのには自分に原因があると自覚しつつも、実家に帰ったサキを半年もほったらかすような男。ダメさはカズオに似ている。さすがは親子。カズオもリョウスケも不器用で、実直で、自分のダメな部分をわかっていて改善しようとしつつあるがなかなかできない愛すべきおバカさんだ。カズオは志半ばでこの世を去ってしまった。しかし、倒れてからリョウスケのもとに現れたということは、多少なりとも「新しい自分になれた、変われた」という実感があったからであろう。リョウスケにはまだまだ時間がある。カズオの遺志を受け継いで、後悔のないよう、“ちゃんとした人”になって生きて行ってほしい。

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死ぬ前の肉親が自分に会いくるという話は、おどろおどろしく語れば怪談になりうるし、死や離婚を扱う話は、じめっとした印象になってしまうきらいがあるが、この物語はもんぜんさんの力量でカラリと仕上がっていて(布団乾燥機が5台あるだけに)聴き終えるとさわやかな気分になった。

カズオの死因は不明だが、倒れてから亡くなるまでの時間がわりと短かったので、心筋梗塞とか脳卒中あたりの病だったのだろうか。死ぬときにあっさり感があったので、苦しまずに逝かれたことを願う。そして、幽体離脱できたのだから、あっちの世界からまたこっちの世界に帰ってきて、ときどきリョウスケの様子見に来てよと願わずにはいられない。

さいごに一言。
私も布団をふわふわにして、ちゃんとした人間になろうと思います。もんぜんさん、このたびは大賞受賞、誠におめでとうござます。そして、今回も素敵な作品を届けてくださったことに感謝いたします。ありがとうございました。

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