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北の海の航跡をたどる〜『稚泊航路』#7 夏だけの専用連絡船『田村丸』

田村丸(1529㌧)は、1907年(明治40)にイギリスで建造されます。翌1908年(明治41)3月、青函航路が開設されたとき、比羅夫丸に続く第2船として就航しますが1924年(大正13)12月から長い間、函館港内で係船されていました。

対馬丸が廃船となったため、1926年(大正15)4月16日より夏期運航の打開策として稚泊航路に就航します。

しかし、冬期運航は砕氷設備がないので不可能で同年11月8日で運航を打ち切って、11日より再び、函館港に係船されます。

そして翌1927年(昭和2)4月7日より再度、稚泊航路へ再就航、夏期運航船として活躍しました。

稚泊航路就航後、1929年(昭和4)7月、大阪商船へ売却、その後、すぐに阿波國共同汽船に再売却され、1934年(昭和9)大阪で解体されています。

田村丸

『田村丸』Tamura-maru
■総トン数 1529㌧
■全長 89.23m
■全幅 13.11m
■最大速力 18.58ノット
■旅客定員 1等18名/2等90名/3等429名
■乗組員 71名
■貨物 239㌧

Episode#1 船内客室
■1等船室
田村丸はイギリスで建造されたので客室関連設備は英国風でした。食堂近くに1等船室があり、1等オープン室という区画もあり婦人用、紳士用に分かれていました。壁面装飾はルネッサンス様式。

■2等船室
室内はカーペット敷きで窓側周辺に取り付けの椅子がありました。1等船室と同様に当時としては珍しい扇風機が取り付けらていました。

■3等船室
室内はカイコ棚式。2段の雑居棚が備えられていました。

田村丸3等船室

Episode#2 船内食堂
食堂の天井の中央部分には大きな天窓があり、これに当時、日本では作られていなかった花柄模様の焼付ガラスをはめて、吹き抜け天井の左右両側には綺麗なカモメのステンドグラスが施されていました。


参考・引用文献
・「サハリン文化の発信と交流促進による都市観光推進調査 調査報告書」
・「稚泊連絡船史」 青函船舶鉄道管理局 発行
・「稚内駅・稚泊航路 その歴史と変遷」 大橋幸男 著


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