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利礼航路開設と『東洋丸』

利礼航路(三角航路)開設以前の状況

毎年、多くの観光客が訪れる日本最北の離島、利尻島と礼文島
近年は、利尻山(1721m)でバックカントリーを体験する海外からのスキーヤーも増加している。
両島へのアクセスは、稚内からフェリー(ハートランドフェリー)である。
利尻島へは、札幌丘珠空港より航空機が通年運航されているが”主役”は、稚内から鴛泊港へのフェリー(所要時間1時間40分)、また、礼文島へのアクセスも同じで唯一の移動手段である(所要時間2時間)。

両島とも江戸時代後期までアイヌの人々が暮らす島であった。そこへ日本国内より和人の移住が始まるのは明治初めの頃。

1869年(明治2)に、それまでの”蝦夷地”から”北海道”と名称が変更され、漁業目的で移住して漁場を経営し"成功者"が現れると、その噂を聞きつけ東北、北陸、山陰などより”島で働く労働者たち”が移住し、やがて、定住へと変わっていく。

漁業が発展してくると島のニシンやニシン粕、昆布製品などを内地(北海道以外)へ運送し、また、島で暮らす人々の生活物資をいかに輸送してもらうのか、これが重要な課題となった。

当然、その物流輸送は、船が担うことになります。
陸路がおぼつかない北海道北部(稚内へ鉄道が開通するのは、1922年/大正11のこと)へは、大しけとなる冬期には、定期船もままならず島民は物資不足と物価変動に悩まされたといいます。当時は、海難事故も絶えませんでした。

東京の三菱会社が政府の補助のもと青森~函館~小樽を結ぶ定期船を就航させるのが明治10年代に入ってからで、1885年(明治18)に『共同運輸会社』と『三菱会社』が共同で立ち上げた『日本郵船』が、道庁の手厚い補助を受けながら小樽~増毛、小樽~宗谷~焼尻~利尻~天売への定期航路を開き,定期船大根室丸が(400トン)が就航します。

次いで1889年(明治22)には天塩汽船㈱の北見丸、天塩丸(ともに200トン)が就航し、1894年(明治27)には浅利汽船㈱の凌波丸(200トン)、1899年(明治32)には、藤山汽船の小樽丸(200トン)の定期船就航となり、その後、1919年(大正8)には香深運送㈱が設立され、同時に北海郵船会社の小樽~利尻・礼文を結ぶ定期航路が新設されましたが、のちに島谷汽船の富山丸(980トン)に引き継がれることになります。

富山丸(980トン)

大正末期における宗谷方面の小樽港発着定期航路について当時の『小樽商工名鑑』には次のように書かれています。

当時は、『北海道庁命令定期船』という分類で2航路があった。

『北海郵船』が運航する『小樽稚内・甲線』は、小樽~増毛~留萌~
天塩~焼尻~仙法志(利尻島)~鬼脇(利尻島)~鴛泊(利尻島)~沓形(利尻島)~船泊(礼文島)~稚内

『藤山汽船』が運航する『小樽稚内・乙線』は、小樽~増毛~留萌~鬼鹿~苫前~羽幌~遠別~天塩~鴛泊~鬼脇~沓形~船泊~稚内

このような状況のなか『藤山汽船』と『北海郵船』の十数隻の船が小樽を基点として島へ米や味噌醤油など生活物資を輸送し、島からは水産物を積み込んで往復するようになります。

丸一水産設立と利礼航路開設

1924年(大正13年)より補助命令航路として小樽~利尻礼文経由~稚内航路に、ほぼ毎日、配船していた「藤山汽船」(1931年/昭和6まで)は、離島を唯一の根拠としていた(泰辰丸宗谷丸/691トンの二隻で運航し北辰丸(500トン)を急行便として、ほぼ毎日運航)が、「島谷汽船」の同航路参入(割り込み/1932年/昭和7年4月)により大きな衝撃を受けることになります。

藤山汽船の樺太丸(570トン)と島谷汽船の富山丸(980トン)の二隻が就航することになり、樺太丸は月に8回、富山丸も月8回のうち2回は網走まで延長することになります。これにより藤山汽船は、離島寄港の整理を始めます。島の関係者は驚き、藤山汽船に陳情したが、結局、離島~稚内間を取り止めます。

ところが、藤山汽船は島民の強い要望により1932年(昭和7)5月から
今まで運航していた伏木(富山)~小樽間を伏木~稚内間に延長して、泰北丸第二ときわ丸の二隻で運航し、月に4回、離島各港に寄港することになったのです。

当時、稚内町(現・稚内市)は、稚内~利尻礼文両島への定期航路の実現について『北日本汽船』に陳情していました。そこで1932年(昭和7)稚内町長は利尻礼文六ヶ村長に対して共同歩調をとって陳情するよう呼びかけを行います。

1933年(昭和8)北海道・利尻島に「丸一水産株式会社」(現・ハートランドフェリー)が創立され漁業と輸送の両方を始めます。この年の10月から『第二東洋丸』(83トン・乗客定員50名)が就航。おなじ頃『第一東洋丸』(34トン)も運航を始めます。

第一東洋丸(34トン)

長い運航時間と船酔い
当時、「東洋丸」は、島民から”東洋、東洋”と親しみをもって呼ばれていたそうです。船のエンジンは、”焼き玉エンジン”で「ポン・ポン・ポン」と丸い輪の煙を吐いて進みました。力も弱く、稚内から島までは、5時間もかかったといいます(現在は、利尻島まで約1時間40分、礼文島までは約2時間)。
少しでも海がしけると、小さな木造船でしたので木の葉のように揺れ、船酔いで大変だったそうです。さらに、港に入ることができないので、港の外で錨をおろし、船を停め、迎えにきた”艀(はしけ)”に乗り移って島に上陸する状況だったそうです。

1934年(昭和9)補助航路として北日本汽船によって稚内~利礼航路が開設されます。

しかし、利礼各村は、昔から小樽と経済的・文化的に強い絆(交流)に結ばれていた為、稚内~利礼航路開設に全面的な支持があったわけではありません。
北日本汽船も、せっかく定期航路を開いたものの赤字続きで運航も順調ではなく、細々と運航しているような状況でした。

1935年(昭和10)4月、鴛泊の『丸一水産㈱』が稚内~利礼間の逓送請負(郵便物輸送)の指名を受け、1936年(昭和11)4月から道庁の命令航路の指定を受けます。

これにより北日本汽船に代わって稚内~鴛泊~香深の三角航路を運航します。その頃に就航したのが『第三東洋丸』(119トン/木造船)です。
これによって藤山汽船の航路は稚内を除いた小樽~利尻~礼文だけとなりましたが、その取扱いは、渡辺廻漕店と香深運送㈱が担当していました。

1937年(昭和12)6月、丸一水産は、稚内利礼運輸㈱と社名を改め、のちに本社を稚内に移します(1941年/昭和16)

1939年(昭和14)11月に稚内~船泊~沓形を寄港する航路の試験運航が行われ『第二東洋丸』『第三東洋丸』が不定期に廻航を続けていましたが、1941年(昭和16)に乙線(稚内~船泊/礼文島)~沓形/利尻島)航路として指定をうけ定期航路が開設され、1942年(昭和17)道庁命令航路の指定を受けます。

1943年(昭和18)2月、蔦井商船と合併して離島航路の発展を図り、稚内と離島の経済交流に尽くします。

1945年(昭和20)に丙線(稚内~鬼脇(利尻島)~仙法志(利尻島)も開設され道庁命令航路の指定を受け、同時に『第五東洋丸』(175トン・木造船・乗客定員112名)が就航。

1946年(昭和21)渡辺廻漕店と香深運送㈱が合同して「香深協同廻漕店」を結成し、「稚内利礼運輸㈱」とともに稚内を起点をする”島外交通アクセス”を構築します。
航路には、『第五東洋丸』『第二利礼丸』『第二東洋丸』の3隻が毎日就航します。

1950年(昭和25)利尻礼文両島は、「道立自然公園」に指定され、1965年(昭和40)には、「国立公園」に昇格されて、一躍、観光地として脚光を浴びます。

1972年(昭和47)稚内利礼運輸は、規模を一新して『東日本海フェリー㈱』と社名を変更し、新鋭の『第一宗谷丸』(500トン)が就航し本格的なカーフェリー運送時代の幕開けを迎えることになります。

ほどなく、”離島ブーム”が起き、全国から観光客が島を目指すようになるとフェリーも大型化していきます。多くの人々や物資を運ぶため3500トンクラスのフェリーが就航し、時代の要請に応じたバリアフリー化も行われ、旅の快適性を提供するために2020年(令和2)2月、最新鋭の『アマポーラ宗谷』の就航を迎えることになります。


参考・引用文献
・風土記 稚内百年史 野中長平 著 1977年
・利尻を想う 武田豊作 著 1982年
・利尻、礼文両島の高山植物とその景観 1974年
・北海道、日本海の島々 中央公論社 1982年
・ハートランドフェリー ホームページ(会社案内)
・広報りしり No.177 1985年


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