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北の海の航跡をだどる~『小樽・稚内サハリン航路』 日ロ船社による共同配船『サハリン7』号

新たな航路担当

私は、『伏木・ウラジオストック航路』から1年ほどで離れることになります。

新たな業務は、1995年(平成7)から2年間だけ運航された『小樽~ホルムスク航路』(同航路だけは、2005年まで運航)と『稚内~コルサコフ』航路でした。

稚内~コルサコフ航路については、1945年(昭和20)の稚泊航路以来の50年ぶりの定期航路復活でした。

新設された航路は、日本の船会社6社(ナビックスライン、日本郵船、大阪商船三井船舶、飯野海運、川崎汽船、東日本フェリー)とサハリンの(株)サハリン海洋船舶(SASCO)の子会社連合サハリン船舶会社による共同配船(運航)でした。

就航船は、サハリン・ホルムスクと大陸側のワニノ間を結んでいた鉄道連絡船『サハリン7』(9305㌧)です。

親会社である山下新日本汽船(YSライン)は、1989年(平成元)にジャパンラインと合併し『ナビックスライン』に改称していました。

親会社の名前は変わりましたが旅行部門は、従来通りワイエスの名前が残されていました。

山下新日本汽船やナビックスラインがあった「パレスサイドビル」(東京都千代田区)

新航路開設の背景とサハリンプロジェクト

1991年(平成3)12月、ソ連邦が解体され、経済的な混乱期を迎えていた1990年代初頭、ロシア政府は、石油・天然ガスなどの資源開発を進める決断をします。

その状況下でサハリン大陸棚に眠る膨大な量の石油資源が注目されます。

資源の存在は、20世紀前半より知られていましたが過酷な自然環境のために資源の採掘や採掘した資源の運搬が困難であったことから事業自体は小規模なものでした。

プリゴロドノエ遠望

しかし、前述したようにロシア政府は外国資本を導入することで資源開発を進めます。

「サハリンプロジェクト」は、サハリン島を取り巻く9つの鉱区(エリア)で石油・天然ガスを開発するプロジェクトです。

世界の石油メジャーや日本企業も多数参加しました。

サハリン航路と関係があったのは、主に『サハリン2』です。

これは、天然ガス中心のプロジェクトで日本からフェリーが到着するコルサコフ近郊のプリゴロドノエにプラントを建設し(2003年から建設開始)、液化天然ガス(LNG)を各国へ輸出するものでした。

プリゴロドノエのプラントとLNG専用タンカー

プラントは、2009年(平成21)2月からLNG工場や貯蔵出荷施設の始動がなされました。

このプロジェクトには、日本企業も出資しており、現在は、プリゴロドノエから専用タンカーで北海道石狩の大型LNG輸入基地などへ輸出されています。

ここでLNGから都市ガスを製造してパイプラインで札幌を中心とする道央圏へ送られているのです。他には東京ガスや東京電力(株)にも輸出されています。

LNG輸入基地(北海道石狩新港)

1995年前後、サハリンプロジェクト、特にプリゴロドノエやその周辺の建設用地を整地するための重機やそのパーツの輸出などが主要な輸出品となっていくことが期待されていました。

要するに「サハリンプロジェクト」における油田・天然ガス(LNG)開発やロシアの経済復興後の貿易拡大を見越した展望に立って、ロシア本土への航路の延長も含みつつ、まず、その手始めとしてサハリンと北海道との航路を開設して”様子をみる”という意味合いが日本側船会社には、あったのだと航路開設交渉の近くにいた者として当時、このように感じていました。

しかし、日本側海運会社6社には、航路開設に積極的な企業とそうでない企業があり、日本側は対サハリン航路開設に向けて一枚岩ではなかったのです。

このことが、航路が2年という”短命航路”に終わってしまった理由の一つであるとも個人的には思っています。

サハリン7号 就航

航路開設に向けての交渉は、1993年頃から行われていたと記憶しています。

日本側6船社の中でナビックスが幹事会社となっていましたので航路開設交渉がサハリンで行われる際には、添乗員として交渉団に同行しました。

1995年から航路が始まるのに先立ち前年の1994年に試験運航が小樽や稚内で実施されたと思います。

主な目的は、各港での離着岸の確認や貨物の搬入・搬出方法の確認や離岸・着岸時の係留方法の確認だったと記憶しています。

車両積載(小樽港)

そして1995年より貨客船『サハリン7号』による小樽と稚内からのサハリンへの新航路が開設されます。

『サハリン7号』は、ロシアにおいてハバロフスク地方(大陸側)のワニノとサハリンのホルムスクを結ぶ貨客専用の鉄道連絡船でした。

ですから貨物甲板にはレールが敷設されており28両もの鉄道車両と37台のトラックを1度に輸送することができました。

小樽港

就航当時の「サハリン7号」の旅客定員は、120名。当時は、前年(1994年)に函館~ユジノサハリンスク間で航空路が開設されていましたが就航機材はアントノフ24型機というロシア製プロペラ機、定員は36人でした(2009年/平成21年7月から運休)。

それに比べるとサハリン7号は3倍の旅客を輸送することができたのです。

よってグループ旅行や団体旅行に利用されていたと思います。航空機はビジネスマンという棲み分けがなされていました。

所要時間は、稚内航路は、約6時間30分、小樽航路は、18時間。

稚内港でのサハリン7号への乗船風景

予約・発券業務

日本側運航会社の中でナビックスラインが幹事会社でした。

その関係でサハリン7号の予約・発券業務は、「ワイエストラベル」が担当することになりました。
私は、その業務担当に選任されます。

当時、ワイエストラベルは、東京に1店舗を構えるだけで北海道に支店はありませんでした。

そこで道内関係の予約・発券は、旅行会社「ポーラスタージャパン」(札幌市/杉山基社長)に委託することなります。

当時の予約管理は、大きな紙製の台帳で管理を行い、乗船券も名前などお客様の情報は、タイピングするという極めてアナログ的な業務形態でした。

サハリン7号(稚内港)

『サハリン7』号 SAKHLIN 7
・竣工 1982年(昭和57)
・総トン数 9305㌧
・全長 127.02m
・旅客定員 120名(※のちに国際条約改定により36名以下となる)
・貨物積載量 2245㌧

船室

船室は特等室、1等室、2等室のカテゴリーでした。特等室は、シャワー、トイレ付、2等室は4人部屋で木製の2段ベッド。

少々、狭さを感じましたがデッキやパブリックスペースで過ごすことが多く、ただ寝るだけであれば船室代も安価だったので2等船室で十分でした。

船室の木製ベッド

船内食堂

船内では本格的なロシア料理が提供されていました。

定員にちかい乗船客がいる場合は、食事時間を2部制にして私も”臨時ウエイター”としてお手伝いしたことがありました。

船内食堂

食事は1食800円で食べることができました。

食事内容は、前菜、スープ、メーンディッシュ、サラダ、パン、飲み物で”ボリューミーなロシア料理”でした。
特にボルシチと船内で焼いたパンは人気がありました。

ボルシチは、お代わり自由で何杯も食べてメーンディッシュを残す方も。

また、黒パンは、本格的なもので少々、酸味がある”本物”。
私は、バターをたっぷりと塗って、その上にイクラをのせて食べるのが好きで、お客様にも勧めると、病みつきになる方が多発しました。

しかし、私が一番大好きだったのは、白パン。
ニンニクの香りがするパンで中にも少し”ニンニク片”を感じました。
この焼きたてパンは本当に旨かった。

写真手前のボルシチと左側上部の”ニンニクパン”は人気があった

船内売店

船内に売店を新たに開設し、何を販売するかを貨物担当者と話し合いを行いました。

酒類やソフトドリンク、お菓子類は販売していましたが、目玉商品も販売しようということで船内限定で「サハリン7号グッズ」を作りました。

T-シャツやハンディタオル、バンダナなどです。当時は、携帯電話がありませんでした。 
その代わり船内にはテレホーンカード用の公衆電話がありましたのでテレホンカードは隠れた売れ筋商品となります。

また、ユニーク商品としては、ロシア製のプラモデルやシベリア鉄道のレールを切断した文鎮なども販売しましたが、こちらは、あまり売れ行きは良くなかったと思います。

船内売店

ロシア人スチュワーデス(アテンダント船員)

「サハリン7号」にも若い女性スチュワーデスが乗船していました。

船内の清掃や食堂での給仕などをしてくれました。

ナホトカ航路に就航していたルーシ号のスチュワーデスよりも背が高くて、体格がいいスタッフが多かったイメージがあります。

ロシア人アテンダント

Episode #1 少々、怖い船内エレベーター

「サハリン7号」船内にはエレベーターが設置されていました。

しかし、このエレベータは見るからに”老朽化”しているのが分かりました。

実際に乗ると壁にゴツン、ゴツンと当たりながら上昇・下降するので利用者から”怖すぎるエレベーター”と言われていました。

乗るのが怖かった船内エレベーター

Episode #2 幻に終わった俳優 奥田瑛二さんとの共演?

「サハリン7号」が就航していた1996年(平成8)は、サハリン(樺太)とも縁がある作家 宮澤賢治の生誕100年目でした。

当時、宮澤賢治を特集するテレビ番組が多く制作されていたことを覚えています。

あるテレビ局(TBS?)が1923年(大正12)樺太へ渡った賢治を追想する番組をサハリン7号を使って撮影することになりました。

丁度、乗り合わせた私も撮影に協力して番組に出演することに。

賢治に扮して樺太(サハリン)へ向かうのは、俳優の奥田瑛二さん。番組のナレーターは、女優の安達祐実さんでした。

撮影場面は、私がサハリン7号の甲板から海を眺めているとコートを着て、帽子をかぶり、革製の鞄を持った賢治(奥田瑛二さん)が話かけます。

「宮澤賢治を知っていますか?」私のセリフは、振り向いて「えっ、宮澤賢治ですか?」でした。

何度か撮り直して、ありがとうございましたで終了。

宗谷海峡を見つめるサハリン7号の女性船員

船内から親や知人に”奥田瑛二と共演した‼︎"と電話したのは言うまでもありません。

しかし、オンエア当日、その場面は、全てカットされており番組の最後に「協力 ワイエストラベル」とテロップが流れただけで、大恥をかいたことが忘れられません。

今でも奥田瑛二さんをテレビでお見かけすると当時の恥ずかしい思い出が浮かんできます。

運航継続を巡る日ロの混乱

1996年(平成8)の運航終了後、サハリン側より「サハリン7号」のエンジンが不調であり修理が必要であるとの通知が届きます。

ついては、修理費用を日本側船社で負担してほしいという申し出でした。

コルサコフ港に停泊中のサハリン7号

船社6社の意見は分かれたと聞いていますが、結局、申し入れは不可とする回答をサハリンへ通告します。

これが運航休止の要因だったと記憶していますが、当時、直接、関わっておらず詳細は分かりません。これは、のちにナビックスラインの担当者から聞いた話です。

その後、稚内からの航路は休止。

しかし、小樽からは、ホルムスクそして大陸側のワニノへの航路が存続することになります。

小樽からは、中古車、中古タイヤ、建設機械などが輸出され、ロシアからは丸太や製材などが輸入されました。

また、国際条約(SOLAS条約だったろうか)の改訂により旅客定員が120名から36名以下に変更されます(定員を維持するには船内設備の改良を必要とした)。

同船は、この改定により事実上、”貨物専用船”として、その姿を変えることになったのです。

しかし、この航路も2005年(平成17)に休止を迎えます。

サハリン航路が途絶えた稚内は、1997年(平成9)から旅客会社「ポーラスタージャパン」(札幌市/杉山基社長)がロシアの客船をチャーターしてサハリンツアーを企画催行します。

その後、1999年(平成11)東日本海フェリーの『アインス宗谷』が稚内・コルサコフ間に就航することになるのです。

日本船籍により定期航路は、1945年(昭和20)の連絡船『宗谷丸』以来、実に54年振りでした。

荒波の中で。。。

このような航路継続を巡る目まぐるしい動きの中、私自身も”人生の荒波にもまれる”ことになります。

突如、1997年(平成9)1月にワイエストラベル(株)は、解散・廃業となると「ナビックスライン」より通告されます。ただ、ただ驚くばかりでした。

同年4月にワイエストラベル時代の上司が立ち上げた旅行会社に私も参画することにしました。

同社は、ほぼワイエストラベルの業務を引き継ぐことになりますが、「ナビックスライン」という大きな後ろ盾を失った会社は、残念ながら2000年(平成12)1月に廃業に至ります。

また、ナビックスラインも、1999年(平成11)4月、大阪商船三井船舶と合併して『商船三井』となります。

54年振りの日本船によるサハリン航路開設と自責の念

2000年(平成12)残念ながら職を失った私は”プー太郎”となり職業安定所に日参する日々が続きます。

初めての子供が誕生した頃で人生で最も辛い時期だったと思っています。

そんな折、以前、航路開設会議でサハリンへ同行させて頂いた東日本フェリー東京支店長より連絡を頂戴します。

北海道で稚内・コルサコフ航路を開設したので北海道へ戻る気があるならば、運航会社社長へ紹介するとの内容でした。

断ることができる状況でもなく、支店長にお願いして当時の東日本海フェリー(現 ハートランドフェリー)社長と札幌でお会いしました。

社長は、利尻礼文と国際航路で会社の2本柱として経営を行っていきたい。
ぜひ、あなたの経験を生かして我が社の国際航路を一人前にしてくれとお願いされたのです。

私は、自信がありませんでした。 
しかし、”どん底から救ってくれた恩”に報いようと、全力を尽くして取り組むことを社長に約束します。

このような経緯で私は、日本船籍としては、54年振りとなる「アインス宗谷」による稚内・コルサコフ航路に関わることになります。

しかし、これがロシア航路と関わる最後となりました。

コルサコフ港に係留中のアインス宗谷(東日本海フェリー時代)

航路は、2015年(平成27)9月で休止となります。

前社長との約束を果たすことができませんでした。

サハリン航路最後の乗船受付業務を担当(2015年9月/稚内港)
アインス宗谷に掲げられた感謝の垂れ幕(稚内港)

その後、札幌本社へ転勤とな利尻礼文航路そして奥尻航路の営業開発を担います。

2020年(令和2)9月、私は、定年退職を迎えました。

会社に残るという選択肢もありましたが、前社長との約束を守れなかったことは、ずっと自責の念として残っていました。

会社に留まることは、できないと思ったのです。

稚内・コルサコフ航路については、改めて発信したいと思っています。

ロシア航路担当者として。。。

ロシア航路は、その時の政治や経済状況により、その存続が大きく左右されてきました。

担当する者として、そのたびに翻弄され、心休まる日は、ありませんでしたが、歴史が大きく動いている瞬間に身を置くことができたことは何者にも代えがたい貴重な経験でした。
本当にしあわせでした。

航跡をたどる。。。

いま思うことは、ロシアとウクライナの戦争が早期に終結すること。

そして再び、サハリンとの交流が復活し航路が再開され、また、ロシア、サハリンとのビジネスが元の状況に戻ること。。。

これが私の切なる願いです。 





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