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北の海の航跡をだとる~『稚泊航路』#14 稚泊航路の終焉

1945年(昭和20)8月24日 稚内港

1945年(昭和20)8月24日未明、稚内港に1隻の船が姿を現します。前夜、午後10時、樺太・大泊港を定員の6倍近くもの避難民を乗せた
稚泊航路連絡船『宗谷丸』(3593㌧)です。

宗谷丸(稚内港)

午前4時、北防波堤ドームの稚内桟橋駅横に着岸。タラップが船に掛けられると数えきれない乗客が吐き出されてきました。

どの顔もひどく疲れ切っている表情を浮かべています。船員に誘導されるまま岸壁に降り立つと倒れるようにしゃがみ込む人々。

よく見ると防波堤にも同じくらい疲れ果てたような人々の長い列が身を横たえて夜が明けるのを待っているようでした。

彼らは、いつ来るとも知れぬ列車を待つ人々でした。

戦争の始まり

当時、北緯50度以南の樺太の人口は、約42万人。

人々の胸の中には、大きな不安がありました。同じ島、樺太で国境を接するソ連(現 ロシア)は、『日ソ不可侵条約』によって中立を守り続けてきた。

もしも、そのソ連が、突然、北緯50度線を越えて、なだれ込んで来たら・・・

この人々の大きな不安は、1945年(昭和20)4月5日のソ連による不可侵条約廃棄通達によって、一層、大きなものになっていきます。

7月上旬になると国境付近をソ連軍機が飛び回ったり、戦車や自走砲が一斉に南下を始めるのです。

日ソ国境石

8月9日早朝、幌内川の左岸、武意加の国境警察が少数のソ連兵に不意の襲撃を受けたのを皮切りに、国境監視所の砲撃、国境半田地区での戦闘、ソ連兵2000人による古屯への侵攻と戦火は南へ南へと広がってきました。
 
人々の不安は、現実のものになったのです。

住民たちの中には、若い人たちを逃がしたあと、わが家を死地と定め動こうとしない老人。
自決の青酸カリを探し求める人。
機銃掃射で母親を失い泣き叫ぶ幼児。

大泊港へ

1905年(明治38)以降、実に41年間にわたって築かれてきた樺太の終末は、さながら地獄絵図と化したのです。

逃げ惑う人々は、汗とほこりにまみれ、群れをなして南へ南へと向かいます。

鉄道貨車で、トラックで、あるいは徒歩で。
この中には、背中とお腹に二人の子供を括り付けて100数十キロの道を歩き通した母親もいたといいます。

大泊港へ向かう避難民

南へ向かう全員が、この先、どうなるか分からない。ただ南の大泊にさえ行けば、自分たちが樺太へ渡る時に乗ってきた内地への連絡船がある、「宗谷丸」がいると思ったにちがいありません。

ただ、ただ、その思いで残された力をふりしぼり黙々と歩き続けたはずです。

悲劇

このような混乱のさなか悲劇が起きます。

8月17日、恵須取(現 ウグレゴルスク)から南へ向け避難途中の看護師23名が退路を断たれたと思い込み集団自決を図ります。翌朝6名が亡くなっているのが確認されました。

また、その3日後、8月20日、真岡(現 ホルムスク)では、郵便局の電話交換手9名が職務をまっとうし青酸カリを飲んで自決します。

9人の乙女の碑(稚内公園)
真岡郵便局(1976年/昭和51年)

そして同じ8月20日多くの避難民が貨車などで大泊へ向かおうとしていた豊原駅をソ連軍機が爆撃します。

これによる死者は60名とか100人以上とも言われていますがはっきりしません。北海道道庁の資料では、この爆撃による死者は、108人(うち樺太奥地からの避難者は70人)とされていますが根拠は不明です。

豊原駅

このような悲劇が8月15日の終戦以降も樺太のいたるところで発生していたのです。

大混乱の大泊港

1945年(昭和20)8月23日の大泊港は快晴。

岸壁の横づけされた「宗谷丸」の船上では、乗船の混乱が続いていました。

岸壁には、避難民が横八列に並び、それが延々3km余り先まで続いている。この中の誰一人として、この「宗谷丸」が内地へ向かう最後の船だとは知らないはずでした。

岸壁で乗船を待つ女性や子供、老人までもが鉢巻をしていました。それは、勇ましさからくる姿ではなく、樺太奥地からの長旅で疲れ果て、もう一歩も歩けないという人たちが持てる最後の力をふり絞ろうと額に巻き付けたものでした。

その人々の持ち物といえば、申し合わせたように風呂敷包みかリュックサックだけというものでした。

避難がいかに急な出来事であったかを物語るものでした。

宗谷丸・福井船長は、「非常事態である。規則などと言っておれん。一人でもいい、余計に乗せろ」と船員たちに指示を出します。

乗船が始まると、船内は、むせ返るほどの人で埋まります。

はじめは客室から。そこは、たちどころに満員。次は船内で空きスペースがあるところ。上甲板から救命ボードの中、はては、船長室まで人で埋め尽くされたのです。

その時、「宗谷丸」は、敵潜水艦の魚雷攻撃を警戒して船窓は、全て密閉していたので、どこも、うだるような暑さで倒れる人が続出しました。

船員から船長へ「もう限界です」と報告されますが、船長は、同意しません。たまたま乗船していた医師からドクター・ストップがかかり、船長は、乗船終了を決断するのです。

大泊港

後日、福井船長は、その時のことを、「それでも婦人や老人から涙を流し声をからして哀願され、さらに数十人は乗せました。

その時は、心を鬼にしてタラップを外したよ」と述懐しています。

また、元宗谷丸の船員も「これ以上乗ったら船が沈むぞ」と言って乗船を押しとどめたといいます。

「宗谷丸」は、定員790名の6倍近い4500人を乗せて、午後10時過ぎに後ろ髪を引かれる思いで稚内港へ向け出港したのです。

まぼろしの稚泊航路

1923年(大正12)5月1日、第一船の「壱岐丸」就航から1945年(昭和20)8月24日の22年間で約300万人を運んだ稚泊航路は、その役目を終えたのです。

運航期間が短く”まぼろしの航路”と呼ばれることもある稚泊航路。

樺太という40数年間存在した日本の領土があって、そこへ夢や希望を持って向かった人々がいて、それを運んだ輝かしい稚泊航路があったことを忘れてはいけないのです。

そうしたら本当にまぼろしの航路となってしまいます。

地元は稚泊連絡船の歴史と栄光を未来へ伝えていく義務があるのです。

「氷雪の門」(稚内公園)。樺太への望郷の念と樺太で亡くなった多くの人の霊を慰めるために1963年(昭和38)に樺太が望める稚内公園に建立された(札幌出身の彫刻家 本郷新の作)

参考・引用文献
・「稚泊連絡船史」 青函船舶鉄道管理局 発行
・「樺太1945年夏~樺太終戦記録」 金子俊男 著
・「望郷の島々~千島・樺太引揚げ者の記録」 栗生一郎 発行

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