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北の海の航跡をたどる~『稚泊航路』 #4 稚内築港工事 第1期

プロローグ

1900年(明治33)、町制を施行した稚内は築港と鉄道敷設を二大目標に掲げます。

当時、稚内港には、防波堤がなく、北から東にかけての強い風に対しては、さえぎるものがなかったのです。

現在のJR稚内駅の海側に凹字形の名ばかりの小型船や艀(ハシケ)が出入りする船入澗があるだけで大型船などは、沖合いに停泊(沖どめ)して、乗降客や貨物は、艀などによって船に乗下船するという不便な状況でした。

『第1期 稚内築港工事』

築港計画:1920年(大正9)〜1926年(昭和元)

稚内港の築港計画が初めて登場するのは、1901年(明治34)に樹立された北海道開拓10ヵ年計画においてです。しかし、着工には至っていません。

稚内港の築港が本格的に動き出すのは、1905年(明治38)9月4日、樺太が日本領となってからのこと。

まもなく小樽・稚内(寄港)〜樺太間に定期航路が開設され、にわかに稚内港は、その連絡港として注目を浴び、地元における築港運動も活発化していきます。

1910年(明治43)第1期北海道拓殖計画に急遽、稚内港修築事業費が計上され稚内前浜の実測が行われて築港の基本調査が始まります。

ところが、この計画は、必ずしも順調に推移しませんでした。

第1期北海道拓殖計画は、1920年〜1926年の中で進められることになっていましたが
1917年(大正6)、築港よりも鉄道建設を優先させるという政府方針が示されたのです。

最終的に決定、着手されたのは、1920年(大正9)で計画から実現まで実に10年を要したことになります。

1920年(大正9)から1921年(大正10)にかけ稚内の裏山を崩して土砂を埋め立て用に使用しました。広さは、16600坪(54900m3)。場所は、現在の稚内市総合福祉センター(稚内市宝来3丁目)のある裏山。

そこの土をトロッコで仮設線路をなん往復もして埋立地などへ運びました。そして、馬車に少しずつ積み替えて移動を繰り返したのです。

■石山モペシ(利尻島)

また、この埋め立てには、大量の石材も必要としました。そこで注目されたのが利尻島です。

当初、鴛泊近くの湾内という地区より集めた玉石が使用されていました。それが尽きてしまうと鴛泊港口にあるペシ岬に目が向けられます。

ペシとモペシ、2つあった石山のうち、小さい方の石山モペシを何年もかけてダイナマイトで破壊して、岬の裏からトンネル(現存しています)を通ってトロッコで運ばれ、港から盤船で稚内へ運ばれました。

石材の多くは、防波堤用の基石に使われたといいます。
もし、破壊されたのが石山ぺシだったら、現在の鴛泊港口の印象も大きく変わっていたことでしょう。

コンクリート用の砂は、稚内・声問地区のメグマ浜のものが使用されたようです。

爆破破壊される前の石山モペシ。赤丸の中
現在のペシ岬。左側にかつて石山モペシがあった

工事は、北側に防波堤と停泊岩壁(停泊場)、南側に防砂堤を建設し、その間の約119万㎥の海面を守るのが事業の全体計画でした。稚内としては、どうしても近代的な港湾を必要としていたのです。

停泊岸壁と防波堤の構造は、停泊岸壁が5.5mのケーソン式混成堤にし、長さ270m、幅37m、防波堤は、長さが1309m。ただし幅は一定ではなく4種タイプの堤からなっていました。防波堤の外側には、強固な波返しが構築されます。

また、樺太へ行く船舶の発着の利便性を高めるため、港内の浚渫(しゅんせつ)も伴う工事でした。

また、防砂堤は、長さが480m。南側から沿岸に流れてくる砂礫を防ぐために計画されました。

防砂堤の根元には、船入場2つが築造されます。東側には鉄道用地が確保され、民間による埋立で石炭置場や倉庫、船入場も計画されました。

1925年(大正14)稚内市街図

エピローグ

防波堤は、完成したものの前述したように稚内の自然は、大変厳しく高さ5.5mの防波堤(停泊岸壁)では、風波を防ぐことはできず、防波堤を越える波に度々、悩まされることになります。

この状況下で第2期工事(1927年/昭和2年)で防波堤に「庇(屋蓋)をつける」というアイデイアに基づいて北防波堤ドームへの建設という流れになっていきます。


参考・引用文献

・「稚内駅・稚泊航路 その歴史の変遷」 大橋幸男 著
・「風土記 稚内百年史」 野中長平 著
・「サハリン文化の発信と交流促進による都市観光推進調査 調査報告書」
・「北海道鉄道百年史」 日本国有鉄道北海道総局 発行


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