北の海の航跡をだどる~『稚泊航路』 #11 海峡の女王~『宗谷丸』
プロローグ
1931年(昭和6)の冬は、樺太領有以来という猛烈な寒さに見舞われた。航路上の結氷も例年より早く、稚泊航路の開設1番船の名誉を受けた「壱岐丸」も船体に著しい損傷を受け、ついに1931年(昭和6)5月11日、第4便限りで運航を中止した。
壱岐丸は、係船され、これに代わるべき砕氷船建造計画が立てられ、1932年(昭和7)12月に竣工したのが、『宗谷丸』。
1942年(昭和17)に高島丸が建造されるまでは、日本最大の砕氷船でした。
"海峡の女王"の就航
宗谷丸は、1932年(昭和7)12月18日、稚内港にその雄姿を現し、19日は稚内町の有志150名を招いて、船内で招待披露宴を行い、午後10時、稚内港から大泊へ処女航海を行います。
大泊でも招待披露し一般観覧をおこない12月22日6時30分 大泊港発第4便として運航初日を迎え、稚内へ向かいました。
宗谷丸は、横浜船渠(株)で建造費150万円で建造されました。
砕氷設備は、ほぼ「亜庭丸」と同じでしたが、いたるところに航路開設当時から積み重ねられてきた工夫・研究が生かされていました。
この成果が、やがて、同じ船名で日本初の南極観測船「宗谷」に引き継がれていくことになります稚泊航路は、この「宗谷丸」と「亜庭丸」の就航によって一気に安定期を迎えます。まさに”砕氷船時代”の到来を迎えます。
2隻体制で毎日運航(冬季を除く)が可能となりました。
従来の冬季の月15往復運航を、この時に毎日運航としなかったのは、冬季は、砕氷作業上、昼間運航とし夜間荷役を避けて翌日荷役と燃料(石炭)と水の補給をする必要があったからでした。
それまで9時間だった冬季の所要時間も夏と同じく8時間に短縮されました。しかも、特別な場合を除き、ほぼ定時運航も可能となるのです。
北の海を航行する2隻の船は、「亜庭丸」を”北海の女王”、「宗谷丸」を”海峡の女王”と呼ぶに相応しい存在となっていきます。
船内
レストラン(食堂)
明るく暖かい感じがする熱帯植物を描いたニス仕上げの壁面にトナカイの浮き彫りを入れて、その額縁にブルーのランプを入れてあり素晴らしい装飾でした。
乗下船口ホール
当時、北国の冬は、滑り止めの付いた雪ゲタを履く人が多く、木製甲板又はゴムタイルに傷が付くので乗下船口ホールは、モザイク張りにされていました。
客室
客室の配置は、遊歩甲板上にレストラン(食堂)、談話室、1等船室、上甲板に乗下船口ホール、2等雑居室、2等寝台室、3等喫煙室、そして中・上甲板にわたる広大な3等船室が設置されていました。
1等船室
3人用船室が6室あって、各室に2段ベットとソファー1個を取り付けており、ソファーは、ベットとしても使用できました。
2等船室
雑居室と寝台室があって、雑居室は、室内を通路を挟んで左右に分かれ、畳にカーペットを敷いており、寝台室は、機関室周囲の壁をコの字型に囲んだ1室で、2段ベット14台とソファー7個を取り付けていました。
3等船室
中甲板に2室、下甲板に1室を設け、仕切りのない雑居席としたが中甲板の1室には、畳にカーペットを敷いていました。
なお、3等船室の右舷前方には、病室も設置されていましたが船医が乗船していたは不明。
客室の環境
客室の換気装置は、大幅に改善されました。
各船室に暖房も兼ねるサーモスタット方式の空調機器を設置しました。
従来の連絡船の3等室は、多数の旅客が利用するため“独特の臭気“を発散していて大変不快でした。この要因は、換気が十分でなかったためですが、冬など外気で通風を行うと室内の温度が下がってしまいます。
そこで、気温に応じて予め適温に調整された新鮮な空気を1時間に約12回入れ換えるようにしました。
スチームヒーターのような暖房設備はないが、自然に室内を適温に保てるようになっており、客室設備のうちで最も改善されたのは、3等船室の居住環境が非常に良くなったことでした。
また、一般旅客設備の改善の一環で3等客専用の広い喫煙室も設置されたため、航海中の船旅は、とても快適なものになったと当時の資料には記載されています。
喫煙者には厳しい状況の現代では考えられないことです。
Episode#1~宗谷丸10時間漂流
1933年(昭和8)2月2日、大泊港を8時30分に出港。途中、流氷帯に挟まれて西能登呂岬沖を約10時間漂流し3日朝になって、ようやく流氷を割って前進することができ、11時に稚内港へ入港した(航海時間26時間30分)
Episode#2~弘前丸を救助
1936年(昭和11)7月3日、近海郵船の弘前丸(1354㌧)が樺太・真岡から大泊へ向けて航行中に能登呂半島宗仁岬沖で座礁します。
弘前丸から発信された「SOS」を宗谷丸が受信、ただちに現場へ急行します。現場は、波が高く弘前丸の船体は、すでに45度に傾斜し浸水が酷い状態でしたが宗谷丸の乗組員は危険を冒し乗客156名と船員5名を救助、残りの船員は救命艇で白主へ無事避難します。
その後、弘前丸の離礁は、難しいと判断され船体は、放棄されました。
Episode#3〜宗谷丸航行不能
1937年(昭和12)2月13日、14日の両日、北海道に接近した低気圧(973hPa、最大風速が大泊で29.8m/秒)による台風並みの大暴風のため、宗谷丸は、出港を見合わせていました。
15日、第1便として10時15分、稚内を出港したが、低気圧の影響で港外は、流氷で埋まり岩壁突端より、わずか300mの地点で航行不能に陥り48時間の立ち往生を余儀なくされました。
17日7時25分からの離氷作業で約3時間で岩壁に係留ができましたが、推進器翼(スクリュープロペラ)を欠損して修理のため函館へ回航されました。
Episode#4〜宗谷丸座礁
1938年(昭和13)11月11日、宗谷丸は第2便として12時、大泊を出港。稚内に入港する頃、みぞれを伴う東北東の風18mの強風と高波という気象でした。宗谷丸は、この状況のため、19時44分、稚内港防波堤灯台より1000mの地点で座礁します。
旅客216名と郵便物41個は、駆けつけた小蒸気船で無事救助されました。船体の損傷も海底が砂地であったので比較的軽微でした。
Episode#5〜稚内へ入港できず
1944年(昭和19)3月7日、前日からの天候悪化のため出港を見合わせていた宗谷丸は、大泊を5時40分に出港します。
途中、流氷のため停泊しながらも稚内へ向かいます。しかし、6日以来の北東の風によって、稚内港内は堅氷で入港することができず留萌へ向かい、9日6時50分入港します。
その後も稚内港の状況は好転しなかったので航路を大泊〜小樽や大泊〜留萌に変更し、16日から平常運航に戻りました。
Episode#6〜宗谷丸と海防艦への攻撃
終戦直前の1945年(昭和20)7月18日、いつものように乗客600人程と軍需品や貨物を満載し大泊港を8時に出港した。出港と同時に乗組員は非常態勢に入ります。
宗谷丸は警戒航行を行い左45度、約500メートル前方には宗谷丸を護衛する海防艦112号(宗谷防備隊所属)が航行中でした。
大泊を出港して約4時間、海面を一筋の波が糸を引くように見えた瞬間、海防艦112号が大爆音とともに艦尾から轟沈します。
そのあと、宗谷丸にも雷撃(8本)がありましたが船長の冷静なる操船により無事に稚内に入港した。攻撃したのは、アメリカ軍の潜水艦バーブ号(SS220)。海防艦112号の乗組員は152名が戦死します。
宗谷丸を護衛して、その身代わりとなったのです。それがなければ、おそらく2隻とも撃沈させられていたでしよう。
1980年(昭和55)宗谷海峡を見下ろす宗谷岬公園に「宗谷海域海軍戦没者慰霊碑」が建立されました。碑は、海防艦112号を始め、樺太を含む宗谷海域の防備にあたり殉職した鎮魂の碑です。
稚泊航路の終焉と栄光の船・宗谷丸
1945年(昭和20)8月23日、大泊港から定員の6倍近い4500名を乗せた宗谷丸が航路最終便となり、翌朝の稚内入港(午前4時)をもって稚泊航路は、その役目を終えました。
稚泊航路で最後まで樺太引揚輸送の大任を果たした宗谷丸は、1945年(昭和20)10月3日、函館へ回航され、11月29日から青函航路に就航します。同航路は戦争で輸送力が弱体化していたためです。
その後、青函航路が復活し始めると岩壁に係留され、一時、朝鮮戦争により傭船されますが、1952年(昭和27)9月、広島鉄道管理局へ転属となり、貨物船へ改造されます。
1954年(昭和29)の洞爺丸台風で青函航路は、一夜のうちに5隻もの連絡船を失います。宗谷丸は、再び、同年10月13日から青函連絡船に就航します。
それも約2ヶ月後ほどの12月25日に任務を終え、再度、広島へ戻りましたが、1965年(昭和40)三菱商事に売却され相生市(兵庫県)で解体されます。
宗谷丸は、建造以来33年の生涯を閉じます。
宗谷丸は、航路第1船となった「壱岐丸」と同じく“栄光の船“であったといえます。
現在、稚内港の北防波堤ドームに「稚泊航路記念碑」があります。
そこに吊るされている号鐘(レプリカ)には、「宗谷丸」という船名が刻まれています。
ここを訪れる多くの観光客は、その号鐘を鳴らし、その音色を聞きながら、遠い昔、この岸壁から行き交った連絡船に想いを馳せているのでしょうか。
■稚泊連絡船『宗谷丸』と南極観測船『宗谷』
船名に“宗谷“があるため、よく稚泊連絡船「宗谷丸」と間違われる船に初代南極観測船「宗谷」があります。この2隻は、まったく別な船です。
「宗谷」は、1938年(昭和13)6月10日、長崎県川南香焼島造船所でソ連(現 ロシア)の発注で竣工しましたが、1940年(昭和15)日本海軍に買収され特務艦「宗谷」と船名が改称され、戦争を無事に生き延び、太平洋戦後、引揚業務に従事、任務終了後、1952年(昭和27)6月、海上保安庁灯台補給船となります。
その後、1956年(昭和31)11月、南極観測船の候補船として始め、稚泊航路の「宗谷丸」も上がりましたが、改造費、定員、その他の問題から実現せず、又、新造船案も建造費、工期などの諸問題から立ち消えとなります。
結局、最終的に「宗谷」に決定されました。それから、「宗谷」は、浅野ドック(神奈川県横浜市)で大改造され、砕氷船に生まれ変わり、南極観測船として数次に渡り、南極に赴き、現在は、船の科学館(東京都品川区)に係留され保存展示されています。
■2隻の比較
稚泊航路「宗谷丸」 南極観測船「宗谷」
全長 103.33m 全長 83.3m
全幅 14.7m 全幅 15.0m
総トン数 3593㌧ 総トン数 2736㌧
最高速力 17ノット 最高速力 12.3ノット
搭載人員 670人 搭載人員 130人
参考・引用文献
・「稚泊連絡船史」 青函船舶鉄道管理局 発行
・「稚内駅・稚泊航路 その歴史の変遷」 大橋幸男 著
・「サハリン文化の発信と交流促進による都市観光調査報告書」
・「北海道鉄道百年史」 日本国有鉄道北海道総局 発行
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